燻し銀のバリトン--平田典之先生

バス  三枝康夫

今朝雨戸を開けると、お茶の生け垣の上に、ブルーヘイブンの青い花が寒さにめげず咲き誇っているのが目に入った。右に目を転じれば、柿の葉がすっかり紅葉している。
今日は、金曜日、今週も今日で終わりだ。いつもは、疲労感が漂っている朝なのに、今日はそれがない。どうして。ああ、そうだ。水曜日の晩、上野の文化会館で聞いた平田先生がくれた幸福感が、まだ今朝まで効いているのだ。
平田先生のコンサートにでかけるようになって、もう19年になる。パルテノン多摩、サントリーホール、東村山市のホール、牛込のホールなど、いつも平田先生と田手先生のコンサートは、私に至福の時を呉れてきた。
東京文化会館で、先生の演奏を聴くのは初めてだ。正直いってちょっと心配だった。しかし、それも先生の声を聞いた途端吹っ飛んでしまった。
曲は、ベルデイの、「椿姫」第2幕から、パリ郊外のヴィオレッタの屋敷である。あらすじは、次のとおりである。
青年貴族アルフレード・ジェルモンと、貴族をスポンサーにもつ娼婦ヴィオレッタ・ヴァレリーの出会いから月日が経った。ヴィオレッタは貴族のパトロンとの華やかな生活を捨て、アルフレードと静かに暮らすことを選んだのである。彼女との生活の幸福を語るアルフレードは、帰宅した召使いから、生活費を捻出するため、ヴィオレッタが財産を売却していたことを聞き、気がつかなかった自分を恥じると共に、売った物を取り戻そうとパリに向かう。
そこへヴィオレッタが登場し、彼のパリ行きを聞き、いぶかる。—ここからが先生と教え子の宗田舞子さんの登場である。
先生の役は, アルフレードの父親、ジョルジュ・ジェルモンである。父親の突然の来訪に、驚きながらも礼儀正しく迎える彼女に、彼はあたりを見回し「息子をたぶらかして、ずいぶんと贅沢な暮らしをしていますな」といきなりなじるので、ヴィオレッタは「私の家で女の私に失礼なことを言わないでください」毅然と応じ、たじたじとなるジェルモンに秘密を打ち明ける。彼女が自分の財産を息子との生活のために手放しつつあることを知ったジェルモンは非礼を詫びる。アルフレードをどんなにか愛しているか、と理由を説明する彼女に対し、ジェルモンは本題を切り出す。息子と別れてくれというのである。駄目です、と即座に断るヴィオレッタに、彼はアルフレードの妹の縁談に差し支えるから、助けて欲しいと迫る。ついに要求を受け入れ、身を引くことを彼女は決心する。しかし単に家を去ってもアルフレードは追いかけてくるだろう。方法は任せてくださいと請合うヴィオレッタに礼を言って、父ジェルモンはいったん去る。

先生の演じた役は、常識的な中年男性の典型というよりも家庭を大事にする健全な市民の代表である。道を踏み外した女は絶対に許さない一般世間の考え方を代弁する役である。
通常は、高い音も出る輝かしいバリトンで歌われることが多いらしい。家でマリア・カラスのCDを聞いてみると確かにそうである。
先生は、渋いいぶし銀のような声で歌っていた。これは、どういうことなのか。どのような意図であのように歌ったのか。不自然さは、まったくなかった。むしろ世間の常識が間違っているような気もする。

先生の演奏が終わって、ホールの外へ。よかったねと話す人が多い。山手線で帰宅の途に。
あの渋さ、ハンス・ホッターに似ている。違う。やはり平田先生独自のものだ。
まったく素晴らしい演奏会だった。今度、箱根の合宿でゆっくりお聞きするとしよう。



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