ほほだん

バス 藤森 英二

音楽に素人の自分が「第九」に挑戦するという厚顔無恥さに、友人は「やめろ」という。しかし、そう言われると何としてもやってみたくなるヘソ曲りの性格。いざ入会して歌ってみると、まるで無防備でエベレストへ登るみたい。先生からは「もっと口を開けて」といわれても、普段大声を上げることの少ない自分にとっては難行苦行。 それでも家に帰って洗面所の鏡の前で 「ダイネーツァベル ビンデンビーデル」と口をパクパク動かしてみる。 「これが俺の顔か!」あまりの悲惨な顔にしばし意気消沈、声も出ない。 後ろを振り向くと家内がニヤリ。 「ギャッ!」 その家内いわく「ホッペタにおだんごを作るのよ。唇を意識的に上げると、左右の頬がまんまるになるでしょう。そうして口を開けると声の通りが良くなるみたい」 だれの受け売りか知らないが、試しにやってみると、なるほどニコヤカ、まろやかな顔に。これに平田先生がよく言われる『うれしいビックリ』を意識すれば声がスムーズに出る。 「よし、これでいこう」 しかし待てよ、音程は狂いっぱなし、歌詞も十分にマスターしているわけではない。『第九をうたう会』は成人式(20年)を過ぎているのに、自分はまだ小学生並み。先輩の足を引っ張らないように、先生の教えを必死に守って、少しでも上達しなくてはと気を引き締める。 本番まで、“ほほだん(頬だんご)”の日は続く。 

(2011.7 修正加筆)

「第九をうたう会」に入って

バス 雨宮 尊史

第九を歌おうと思った最初のきっかけは、あるオーケストラのプレコンサートで司会をしたことでした。普段、私は市民オーケストラでファゴットという楽器を担当しているのですが、その時は司会も頼まれました。マイクを使う予定でしたが間に合わなく、そのまま喋り出したのですが、自分の声が全く通らなく、ただ怒鳴っている感じになってしまいました。「声をちゃんと出す、声を通す」ということを調べていくうちに、歌うのが一番いいということになり、歌をやってみようと思いました。 それまで歌にはあまり興味がなく、器楽中心だったのですが、第九は交響曲ということもあり馴染みやすく、また数年前にオーケストラで何度か演奏しているので、第九を歌おうと思いました。 「多摩市民『第九』をうたう会」とは、過去に共演させていただいたことでご縁があり、また複数のオーケストラと共演されていることに魅力を感じておりました。初心者でも受け入れてくれるということで、一度は歌ってみようと決心しました。 実際うたってみると慣れないこともあり、息が足らなくなったり音程が分からなくなったり、また歌詞に気を取られて強弱が付けられなかったり、いろいろと問題が出てきました。 考えてみると、歌は中学生以来うたっていなかったので、なにか新鮮な感じで、楽器を使うのとはかなり違うことを、身をもって知った貴重な体験でした。 「第九をうたう会」に入って感じた印象は、初心者にもやさしく分かりやすい指導や、皆さんの歌に対する情熱、歌声の強さでした。 また練習の参加率も高く、何度も歌っているであろう第九に対しても、最初から丁寧に作り上げていく姿勢に、感銘を受けました。 これから本番まで、暗譜等まだまだやらなければならないことが沢山ありますが、本番まで頑張りたいと思います。

『第九記念日』

バス 坪倉 貴之

私が「第九」を最初に歌ったのは20年以上前のことです。当時は、世の中とても景気がよくて、地域の文化振興という名目での、行政主導の演奏会でした。 オケはプロの神奈川フィル、指揮者は佐藤功太郎(故人)、ソリストは塩田美奈子ほかの一流どころです。しかも合唱団員の参加費は無料、楽譜も無料配布で、当日の入場券は、わずか500円でした。正に「よき時代」でしたね。 初めて夢中で歌った第4楽章でした…終わって形容しがたい感動を味わいました。

以来、第九の魅力にとりつかれ、ステージに立ったのは、十回を超えているでしょうね。でも演奏会後、一度として、「完璧に歌えた」と思えたことがありません。 もちろん、楽譜にかじりついて歌った頃に比べたら、最近はステージでも余裕があります。「多摩の第九」に参加させていただいてから、ドイツ語の発音や細かいニュアンスも考えながら歌えるようになってきてもいます。

でも、何回歌っても…やはり「第九」は難しいですね。それぞれの練習には、割合とマジメに参加しています。そんなにも膨大な時間をかけているのに、未だに完璧に歌えないのは、本当に「ため息」が出る思いです。 「逃げ水」のように、近づいたと思うと、更に遠のくといった感じがします。何とも「ニクイ」曲です。でも、それだけチャレンジのし甲斐がある曲ともいえますけど…。

俵万智が作ったサラダに対して、彼氏は「この味がいいね」と言います。なので、その日を「サラダ記念日」としたそうです。わかりますね、その気持ち…。 聴いてくださる方が満足され、歌った自分も同様な思いに浸れるような「第九」を歌いきってみたいです。

「完璧に歌えたから 今日が私の『第九記念日』」 いつか、演奏会が終わった時に、絶対に、そんな気持ちになりたい…と思っている昨今です。

(2011.7 修正加筆)

日本初演の地 鳴門で歌って感激!

バス 青山 登佑

定年退職して、五十肩と肋骨骨折のリハビリ中だったが、運動だけでは捗々(はかばか)しくない。 そこで若い頃好きだった合唱を再開しようと第九を歌う会に参加した。さらに欲張って?ソロの勉強も始めた(11月30日夜パルテノン小ホールの歌曲とオペラアリアの夕べで歌います)。 その指導をお願いした芸大声楽科卒の岩波淑子先生が鳴門の出身で、「鳴門市文化会館の杮落としの第九にソプラノのソロで歌った。ロビーに大きな写真が飾ってある」と云われたので、渦潮見物も兼て第28回鳴門第九演奏会に参加して歌うことにした。 妻と愛犬を乗せて、久々の長距離ドライブで会場に到着、多摩市民第九の会有志16名と合流した。前夜祭には出ないので客席でゲネプロから見学した。混声合唱〔日本の四季〕、公募で選ばれたソリストによるオペラアリア、第九など好きな世界を堪能できた。これだけでも来た甲斐があると言うもんだ。 さて本番当日、500人を越える合唱団が短時間の練習で見事にまとまる。さすが〔第九のプロ集団?〕と感心した。若い頃、大合唱運動の一員として各地労音の第九公演に応援で参加したが、その頃の種が全国に根付いているのか?と感激も一入だった………。 多摩市民の会で歌うのは2年目になるが、長いブランクで夢中だった去年と違って周りが見えてきて、練習の度に自分の覚え違いや発音のいい加減さを知らされている。 なんだか去年に比べて練習が厳しく、より高度なものを求められている?気がするけど、高齢化にもめげず皆で「練習に集中」して、素晴らしい演奏を創って行きましょう!

前原先生への感謝

バス 宮崎 孝延

私たちが、初回から22年間、ご指導をいただいた前原信彦先生がお辞めになるのを知ったのは、昨年、パルテノン多摩での演奏会が終わった直後でした。控え室に全員が引上げてきた時、突然の先生の辞意表明に私たちは息をのみました。 その年の先生のご指導は殊のほか微に入り細に入り厳しく、「今年はちょっと違うな」という声が皆から聞かれました。先生の熱心さに私たちも、本気になってついて行きました。その甲斐があったのでしょうか、本番の「第九」終演と共に、客席から「ウワァー」という喚声が起こりました。「こんな第九、初めてだ」という讃美の声に聞えました。 本番での田代先生の情感あふれる指揮と、相模原交響楽団の熱演、それにソリストと合唱団が加わった総合力のおかげでしょうが、何といっても前原先生が私たちを厳しく鍛えて下さったからだと言えます。 先生は辞任の理由について、何もおっしゃいませんでしたが、きっと私たち以上に先生を必要とする人たちがおられたからだと思います。本当に、前原先生、長いこと有難うございました。厚く御礼申し上げます。 私たちは先生の後をけがさないように、しっかり「第九」をつづけていきます。

(2009年7月:記)

ようこそ私たちの合唱団へ

バス 宮崎 孝延

7月5日の総会は、多くの新会員を迎えて、今年の第23回・第九演奏会に向かっての出発式、結団式といえるものでした。私たちは、毎年、第九演奏会が終了とともに解散し、次の年の7月前後に、新たな出発をしているのです。 私たち合唱団は、多摩地域の文化活動の拠点として「パルテノン多摩」が建設されたとき、こけら落としに「第九」演奏会が計画され、その合唱団として多摩市民を中心に結成されたのが起源です。 1987年(昭和62)のことで、それから23年目となりました。1年1年、一生懸命育て上げてきたのです。最近の演奏会のお客様は1000人を越えるほどになりました。共演のオーケストラも、近隣の有数の方々との機会が多く、地域に根ざして、しかも都心の「第九」より迫力があると定評があります。 今年の共演する多摩管弦楽団は、パルテノン多摩における「第九」初演の時のオーケストラであり、私たち合唱団と深いつながりがあります。 先人たちの努力を無にすることなく、「初心 忘るべからず」で、新会員の皆様と一緒に、多摩の「第九」をつくっていきましょう。私たちは心からの仲間です。

多摩の春

第九にひそむ鰻

バス 名倉 康秋

A子さんはこの春、ウイーンの楽友協会大ホールで「第九」を歌うツアーに参加した。ウイーン在住の友人K子さんとの久しぶりのおしゃべり、そして憧れの ホールでの舞台、それに続く楽しい打上げ。軽い疲労を覚えながらA子さんはホテルに戻った。 電話が鳴った。受話器をとるとK子さんの声である。 「A子っ、演奏はまあまあだったけど、貴方達もっとドイツ語を勉強しなきゃ駄目よ」。

彼女の話はこうである。 演奏を聴き終わり道路に出たK子さんのすこし前を、声高に笑いながら行く若者の一団があった。気になったK子さんは小走りに追いついた。 「Aale、Aale・・・・・」という声が耳に入った。「あヽ、やっぱり」と彼女はとっさに彼らの笑いの意味を悟った。「alle Menschen・・・」を「Aale(鰻) Menschen・・・」と聴いた彼らは、それを笑いの種にして、楽しそうにはしゃいでいた。 その一団が街角を曲がって行くのを見送りながら、K子さんは「これはどうしてもA子に伝えなければ、伝えなければ」と思いながら、石畳の夜道を歩いた。

帰宅してやっと一息ついたA子さんは、「いつも先生に注意されているのは本当なんだな」と思いながらレコードを聴いてみることにした。「お手本はこれを措いて他にない」と選んだのは、カラヤン指揮のベルリンフィルのLP。合唱はウイーン楽友協会合唱団、そして会場はあのホール。 問題の箇所を聴いてみる。「うーん」、違うようでもあるが「Aale」に聞こえないことも無い。「ドイツ人が『うなぎ』と歌うはずは無い」と思いながら繰り返し聴いても、どうも釈然としない。他のCDを聴いてみるが、どれも「ビミョー」である。 「結局、日本人にはわからないのかなぁ」、「外国語を身につけるのは難しいなぁ」。 A子さんは、今つくづくそう思っている。

おわり

[注] Aale(鰻)の発音は[a:lə],alle(全の)は[’alə]

国立高校の第九演奏会とベートーヴェンのメッセージ

バス 宮崎 孝延

今年、4月30日、都立国立高校の「第九演奏会」を聴きに行った。指揮は中堅として第一人者の広上淳一氏で、オーケストラは日本フィルハーモニー。ソリストも一流である。合唱は同校の2・3年生の有志420人。 会場の“府中の森芸術劇場どり-むホール”の客席は新入生全員と父母で埋めつくされ、若干の空席にOBや学校関係の招待者が座った。 広上氏の躍動的な指揮に、青春まっただ中の張りのある合唱が響きわたった。よくここまでと思うほどの出来映えであった。演奏が終わると大きな拍手が沸き起こり、しばらく続いた。間をおかず生徒の一人が指揮台に上がり、オーケストラの伴奏で、ステージと客席が一つになって校歌の大合唱が始まった。渦潮のような大きなうねりが、全館をゆるがせた。 今年が32回という伝統行事なのだが、そもそもの起こりは、新入生の歓迎行事として何かよいものがないかという話に、どうせやるなら、新入生をびっくりさせるものがよいということになり、音楽の先生の提案で「第九」をやることに決まったというのである。 国立高校は進学校として名高い上に、文武両道主義で、部活動も盛んである。国高祭といって文化祭、体育祭も地域の話題になっている。こうした上に、第九も行われるのである。 第九合唱団は、音楽選択の生徒を中心に、美術・書道選択の中の有志2・3年生が“第九サークル”をつくり練習を行う。1年生のとき聴く側だった者が、歌う側におおくまわるのである。 第九を歌うのは初めてという彼らを短期間でステージに上げる先生の苦労は並大抵ではない。先生と生徒の間を取り持つのが“第九スタッフ”で生徒から選ばれた総責任者1名、副3名、ピアニスト3名、パートリーダ7名である。しかし、毎年続いている原動力は、何といっても参加する生徒一人一人の自覚である。 積極的な姿勢である。 練習には大変な時間と労力を要する。楽譜に忠実な表現に達するまでには、繰り返し繰り返しの厳しい指導が行われる。素人だから、高校生だからというわけにはいかない。本物の第九にちかづけていく。 生徒も自分の力を出し切ってこそ、終演時の聴衆の拍手に「ああ、やってよかった」と自ら実感が得られるだろうし、途中であきらめたり、手を抜いた者には 歓喜は湧き起こらないと思う。 彼らは練習に励むうちに、その曲のすごさが解ってきて、魅力に取りつかれていき、ベートーヴェンの目ざすところにはいっていくだろう。 第九には勇気を鼓舞したり、静かに心を鎮める旋律や、崇高な思いを抱かせる場面など次つぎに現れる。スパイラルに上昇していく気運が随所にある。男女四声のハーモニーがそろうと心が和む。 全員が一つの目標に向かって努力していく姿に感動するようになる。身勝手な行動は許されなくなり、冷静に客観的なかまえになっていく。自分のパートに責任をもち、支えあっていく態度がつくられていく。第九は一人一人の取り組み方によって、ますます輝きを益していく。 青春時代に、こうした体験をもつのは、素晴らしいことだと思う。けっして回り道ではなく、日々の朝の第一歩を踏み出すときの自信につながっていくと思 う。第九には新しい生命を生み出す勢いがある。自分の目標をはっきり掴み、今までよりスピードを出して勉強するようになるであろう。 第九はなぜそんなに強い魅力をもつのか。なぜ世界中で多く演奏され、180年もの間、続いているのだろうか。 カラヤンは「第九は世界中の人々の一番の願いをかなえようとした最高の交響曲である」といったが、ベートーヴェンは「音楽はあらゆる知恵、学問より更に上をゆく天の啓示である」と信じており、人類史上、永遠の課題である戦争のない平和な世界をつくるには、音楽の力を役立てたいと考えたに違いない。 音楽は透明であり純粋である。心臓の鼓動にあっている。だから人の心の奥の奥まで入っていき、魂を呼び醒ますことができる。打算のない美の極致である。 オーケストラを大編成にし、ソロと合唱を入れたのは、そのメッセージを明確に魂にまで届け、新しい人間に生まれ変わらせたかったからであろう。 人間一人一人は弱い存在である。同じ一つの心の中に、善と悪を住まわせている。いつも善が悪に克つとは限らない。悪に打ち克ち、独りよがりの自己欲を抑えて、他者を思いやり兄弟のように仲よく暮らしていくためには、常に良心の強い支えが必要である。それが信仰であるといえないだろうか。 ベートーヴェンが音楽家でありながら、耳の病に冒され、社会から見離されていく自分に耐え切れず、自死の迷路をさまよった果て、救いを神に求めた。そのことをハイリゲンシュタットに於ける遺書の中で次のように書いている、「どうか私の才能の全てを出させて下さい。これからの私の人生を他人のために捧げます。私の内にある全ての作曲を終えるまで、生かさせて下さい」と。神への涙の祈りが22年後の最後の交響曲「第九」を生み出させたといえよう。 彼はこの交響曲の中で神の表現にことさら心を配り、絶妙な表現をしている。神は影・形のない透明な存在であり、音楽でこそ、最も神の表現ができると思ったにちがいない。 神は無になって祈る人の心に映し出される。 音楽・無心・神の3つの共通項は「純粋無垢」である。美しい音楽、偉大な音楽によって純粋無垢な心は育まれていく。芸術による情操教育は感情移入によって、思いやりとか道徳心に深く結び付いていく。 感性にたけた高校生の彼らにこそ「第九」は有効であり、ベートーヴェンのメッセージは受け止められ、人生の糧となっていくことであろう。 息子さんが今年、都立国立高校に入学され、共に歓迎行事で「第九」を聞き感激された親御さんが、自分も第九を歌う経験をしたいと、家が近いこともあって、私たちの合唱団に入団された。12月28日のパルテノン多摩の演奏会に向って、アルトで練習をつづけておられる。

七十の手習い

テノール 髙野 吉司

「なぜ、第九をうたう会に入会されたの?」 「歌が好きだから、ですかね・・」 「それだけ?」 「いや、学生の頃、ドイツ研究会というサークルでアン・ディ・フロイデなど歌っていたから、少しは歌えるかなと思って・・」 「合唱団は初めて?」 「昭和37年頃、新声会という合唱団に入会して“ミュージカル南太平洋”とか“レクイエム”などの合唱をしたことはありますが、1年ちょっとで札幌に転勤になり途絶えてしまいました。」 「結局、何が一番の動機なの?」 「おそらく全てですね。合唱の魅力が分かりかけたころ中断してしまったので心残りだったんでしょうね。それで宮崎さんから誘われた時つい気軽にその気になってしまったんですよ!」 しかしこれは大きな誤解であった。もうかれこれ45年ものあいだ、楽譜を手にすることはなかったので、いざとなると音符を必死に目で追っていっても音の方が先に逃げてしまう。 ハイドンの「来たれ、やさしき春よ!」のうちはまだよかったが、「第九」が進んでくると内心“しまった!”と後悔した。これほど難しいとは思わなかったが、もはや後の祭りである。 「さあーて困った!」と帰途考えた。 その昔、大徳寺の住職、一休禅師が臨終の時、「困ったときに開け!」と言って残した袋がある。いざお寺の一大事という時にその袋を開いたら、「なるようになる、心配するな!」とだけ書いてあった。これは“開き直れ!”という意味であろう。私もそれに倣い、開き直ることにした。 60歳の還暦を記念して『天下布武の果てに』という歴史小説を書いたが、「70歳を記念して『第九』を歌えるのも実に幸せなことだ。」と前向きに考えることにしたら少し気が楽になった。 前原先生のドイツ語の発音のご指導は実に難しいが、学生時代を想い出してなつかしく思えるし、平田先生や田手先生の発声練習はお二人の声のすばらしさに圧倒されながらも楽しく思える。女性のソプラノ、アルトの声は天国から聞こえてくるようで美しいし、男性のバスの声は地の底から聞こえてくるようで腹に響き心地よい。テノールの声は両側から押しつぶされてしまいそうで不安であるが、先輩諸氏の声に勇気づけられて、なんとか続けられそうに思えてきた。 パルテノン多摩大ホールでの演奏会のCDを聴き、今年の12月28日にその中の一員として舞台に立っている姿を想像すると、“七十の手習い”もまんざらではなさそうだと思えるようになった。 しかし、まだまだ不安の種は尽きそうにもない。

(2008.10.7記 )