バス 宮崎 孝延
今日の練習の中に、中島さんの姿はない。二十三年間も会員としてすごし、役員としても二十年間つくした彼が、今年二月忽然と五十五歳の若さで亡くなられた。
昨年の暮れには、パルテノン大ホールで一緒に唱ったのに。持病があったようだが、一生けんめいに練習にも出て頑張っていたので、私は気がつかなかった。
彼はテナーの名手だった。パルテノンばかりでなく、国の内外の有名なオーケストラとも唱っていた。ナルトや高松にもたびたび行ったし、ベルリン・フィルやロンドン・フィルとも共演したりした。しかもお母さん想いで、母上さんと一緒のことが多かった。いろいろ体験することで、自分を鍛えていたのだ。
彼はよく私に、「第九を若い青少年たちに広げていきたい」と話かけていた。今年、中央大学オーケストラとの共演を楽しみにしていた。しかも、中央大学の創立125周年記念演奏会とし、ミューザ川崎のコンサートホールでも唱うのは栄誉なことだと喜んでいた。さらに来年には「多摩ユースオーケストラ」という、小学生から大学生までの若いオーケストラと私たちが共演することを、吾が事のように、期待していた。パルテノン多摩で、土・日の2回公演をし、互いにチケット売りをがんばり、1回分は多摩第九合唱団の運営費に当て、1回分はユースオーケストラ側の団員研鑽の費用に回したらと言っていた。彼自身、若いころピアニストとして、良き師について研鑽をつんだ日々があったればこそ、肺腑をつく言葉だった。
彼は本当に第九が好きだった。「楽聖といわれるベートーヴェンが人生の最後に、渾身の力を振り絞って作った交響曲だから、それに応えて私たちも全力で取り組めば、その真価がよくわかってくるはずだ」「人間を変え、国を変え、世界を変える名曲だ」と熱っぽく語ってくれた。
「第九」の真価にめざめた1人が1人の友に、その1人がまた1人に、次つぎと1人が1人に伝えていくのが「市民第九」だ、そこがプロの第九とちがう点だとも言った。
私はチケット売りを、もう一息がんばって、暮れの第九を満席にして、来年は晴れて、老いも若きも一つになって、いのちの響き合いが、多摩の丘に湧き上がることを願いつつ歌おうと思う。
中島さんは美しい魂の持ち主だったから、星のかなたに昇っていて、私たちの第九を聴いてくれるにちがいない。
「Über Sternen muss er wohnen.」