左手のピアニスト

バス  YS11

今、舘野泉という音楽家が、左手のピアニストとして、世間の注目を集めている。私は、1974年、銀座のヤマハホールで一度だけ舘野の演奏を聞いたことが ある。ヴァイオリンの浦川宣也との二重奏だった。グリーグのヴァイオリンソナタほかだった。しみじみとした演奏会だったことは、まだ記憶にある。
彼は、2001年脳溢血で倒れ、右半身不随の後遺症が残り、ピアニストの命ともいうべき右手の自由を失った。40年にもわたりピアニストとして活躍してきた者にとって、それは死刑宣告にも等しいものだった。失意の日々を送っていた彼に、再起への手がかりとなったのが、息子から贈られた「左手のための曲」の楽譜だった。彼は心躍るものを感じ、再びピアノに向かう。
左手のためのピアノ曲といえば、ヴィットゲンシュタインという名が出てくる。第一次世界大戦で右手を失い、その後左手のピアニストとして活躍している。ラベルの左手のための協奏曲が有名だ。他にも、プロコフィエフやヒンデミットも彼の求めに応じ曲を書いている。彼がいなければ、これらの曲は世に生まれてこなかったといえる。
日本でも舘野ほど世間の注目を浴びているわけではないが、こつこつとひたむきに人生を歩んでいるピアニストがいる。中島章雄さんといい、現在は中央区にお住まいだが、長年、多摩ニュータウンに暮らしてきた方だ。
彼は、寿司職人の家に生まれ、生まれてまもなく父を亡くす。彼の母は、3つ上の姉と彼の、二人の子供を育てるために、人には言えない苦労を重ねた。
母親の愛情のもとすくすくと成長し、生まれつき手が大きかった彼は、習い事として、はじめオルガンを習い、その後ピアノも習うようになる。都立高校を卒業後、晴れて学芸大学のピアノ専攻コースに合格する。しかし、悲劇は、突然訪れる。大学一年の時、脳腫瘍を発症し、右半身に障害が残る。彼は、音楽への道をあきらめざるを得なくなるのだ。
一家は、1971年から入居が始まった愛宕団地に転地した。
失意の日々を送る彼に声をかけたのは、長沢淑郎さんだった。1987年、パルテノン多摩が開館することになり、アマチュアの多摩管弦楽団がベートーヴェンの第九交響曲を柿落としとして演奏することとなった。オーケストラの呼びかけでコーラスが集められた。そのリーダーとして選ばれたのが、いろいろな団体で活躍し、彼と同じ団地に住んでいる長沢さんだった。
長沢さんは、団地の会長をやっている関係で、失意の日々を送る彼のことを知っていた。音楽をやっていたことを人づてに聞いた長沢さんは、中島さんに第九をやらないか、自分でできることでいいから運営委員も引き受けてくれないかともちかける。
これが、中島さんの音楽への、いや人生への再起の契機となる。彼は、第九によってすっかり元気を取り戻し、リハビリも兼ねて左手によるピアノの練習にも精を出すようになる。その後著名な書店に勤めることになり生活も安定してきた彼は、やがて、自分と同じような状況にある障害者を励ますため、左手でピアノを人前でも演奏するようになる。毎年第九が行われるパルテノン多摩では、1994年11月23日の家族の日に、ジュニアオーケストラとラベルの左手のための協奏曲を弾いた。指揮は、国分誠であった。彼が得意とするのは、自分で編曲した滝廉太郎の荒城の月変奏曲である。
彼の母も、息子と一緒に第九に参加することとなり、徳島県の鳴門や香川県の高松にも第九を歌いに出かけ、親子のファンも増えた。また、鳴門の人と一緒に親子でドイツでも第九を歌った。
彼は、第九の練習のため、毎週日曜日には、多摩市に通う。今年11月の箱根での第九の合宿には初日だけ参加した。それは、翌日仕事があったからだ。
彼は、第九の仲間から、「しょうちゃん」と親しみを込めて呼ばれている。彼がやさしさそのものだからだ。色々なことがあっても少しもめげないように見える彼だが、音楽への意気込みは、最近ますます盛んである。再び同じような境遇にある人々を慰問に出かける予定である。
昨日、バッハの左手のピアノのためのシャコンヌを聞いた。むろん、無伴奏のヴァイオリンのために書かれた曲だ。ギターやオーケストラにも編曲されている。過日パルテノン多摩にも来た、ロシアのピアニストであるウゴルスキのCDである。ブラームスが編曲し、クララ・シューマンに捧げた。当時、クララは右手の肘を脱臼していたため、慰めるために編曲したといわれている。
このCDを聞いたことが、この文章を書く動機ともなった。
中島章雄さんのますますのご活躍を心から期待するものである。

(2006.11.9)



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