バス 宮崎 孝延
「第九」に取り入れられた「歓喜に寄す」というシラーの詩の全篇は、1785年に書かれたもので、8節93行からなる長いものである。
シラーは、ゲーテと並び称されるドイツの有名な詩人で、沢山の詩を残し、劇作家でもある。大学教授にもなり、著作も多い。
「歓喜に寄す」は、本来、平和と人類愛をモットーにした世界主義の秘密結社〈フリーメーソン〉のために書かれたものである。青年たちに愛唱され、ヨーロッパ各地で広まった。1789年に起きたフランス革命にも影響を及ぼしたといわれる。
ベートーヴェンも15歳の時に、この詩にふれ、しばらくして友人を介してシラー夫人に、この詩の全篇に作曲をしたいと思っていることを告げたほどである。しかし実際に約束を果たしたのは、31年後のことである。
シラーのこの詩に曲をつけた人は大勢いた。40人にものぼり、有名な人には、ケルナー、チャイコフスキー、シューベルト、マスカーニなどがいた。しかしそれらの作品は自然消滅した形になり、ベートーヴェンが「第九」に一部分を取り入れたものが、180年余を経た今日なおひとり輝いているのである。
それはなぜだろうか。そして第九の魅力について述べたいと思う。
彼が作曲をするまでに31年を要したのは、けっして無駄なことではなかった。
名のある家庭に生まれたわけではなく、耳が聞こえないという障害をもち、偏屈者とも呼ばれ、常に腹部に病気がちであった彼が、辛酸をなめながら、才能の限りを尽くして長く芸術の場で闘ってきたことにより、深い精神性が培われ、人びとを励まし、安らぎを与える偉大な作品を生み出す結果になったと思う。
彼の精神的な苦悩は、ハイリゲンシュタットの遺書の中によく表われている。しだいに孤独に落ち入り、自殺を考えるまでになる。しかし命を絶ち切れず、最後に神に救いを求め祈りを捧げる。
「神様がもし私に生きる力を再び与えてくださるなら、才能の全てを人びとのために捧げます。才能の全部を使い果たすまで、どうぞ生かさせてください。」
夢中でそう祈ったとき、不思議に自ら死の淵から這い上がっていたというのである。
いよいよ晩年、「第九」の作曲に集中するきっかけになったのは、その前年、1823年に「ミサ・ソレムニス」〈荘厳ミサ〉が完成したことにあった。これはキリストと聖句の合唱が渾然一体をなしたものである。これに習って「第九」に合唱を入れることを決意する。そこで頭に浮かんだのが、長年、心の隅に温めてきたシラーの「歓喜に寄す」であった。
「第九」が最後の交響曲になるという予感のもとに全身全霊を捧げようとしたとき、いちばん強く思ったのは、目の前に展開している人と人との争い、国と国との戦争のことであった。せっかく長年の王侯貴族の独裁政治から、大衆が市民権を獲得したにもかかわらず、再び反動勢力に右往左往している姿であった。本当に人間が、人間らしく自立するにはどうすればよいのか、それが課題〈テーマ〉になった。
シラーの詩もそこを強調している。全篇から特にテーマに合う部分を取り出し、思いを込めて旋律をつけた。特に山場になったのは、神〈主〉の表現であった。
星空のかなたに、神〈主〉は住んでおられるに違いない。
Uber Sternen muss er wohnen.
人間の心の中には、善と悪の両方が存在する。常に悪に打ち勝ち、善向かうには、自分よりももっと大きな力〈神〉に依るしかないのではないか。彼はハイリゲンシュタットでの経験をもとに、神の表現に力を注いだ。
けっきょく、第4楽章に「歓喜に寄す」の詩〈抜粋〉を入れることによって、骨格のはっきりした、大衆にアピールするものに出来たのである。
世の中を明るいものにしたいというベートーヴェンの誰よりも強い意志がそうさせたのである。
抱き会おう億万の人びとよ、全世界に口づけを!
Seid umschlungen,Millionen! Diesen Kuss der ganzen Welt!
(万人が愛で地球を覆いかぶさないかぎり、完全な平和は来ない)
神のやさしい御心の中で、全ての人間が兄弟になる。
Alle Menschen werden Bruder.wo dein sanfter Flugel weilt.
〈私たちも、全ての人が兄弟のように、思いやり、助け合う心を持って、幸せな暮らしをしよう。〉
参考文献 武川寛海「第九の全て」日本放送出版協会
この原稿は、本年6月、徳島県鳴門市で行われた、全日本「第九歌う会」連合会
分科会「第九・シラーの詩について」に出席した際作成したものである。