国立高校の第九演奏会とベートーヴェンのメッセージ

バス 宮崎 孝延

今年、4月30日、都立国立高校の「第九演奏会」を聴きに行った。指揮は中堅として第一人者の広上淳一氏で、オーケストラは日本フィルハーモニー。ソリストも一流である。合唱は同校の2・3年生の有志420人。
会場の“府中の森芸術劇場どり-むホール”の客席は新入生全員と父母で埋めつくされ、若干の空席にOBや学校関係の招待者が座った。
広上氏の躍動的な指揮に、青春まっただ中の張りのある合唱が響きわたった。よくここまでと思うほどの出来映えであった。演奏が終わると大きな拍手が沸き起こり、しばらく続いた。間をおかず生徒の一人が指揮台に上がり、オーケストラの伴奏で、ステージと客席が一つになって校歌の大合唱が始まった。渦潮のような大きなうねりが、全館をゆるがせた。
今年が32回という伝統行事なのだが、そもそもの起こりは、新入生の歓迎行事として何かよいものがないかという話に、どうせやるなら、新入生をびっくりさせるものがよいということになり、音楽の先生の提案で「第九」をやることに決まったというのである。
国立高校は進学校として名高い上に、文武両道主義で、部活動も盛んである。国高祭といって文化祭、体育祭も地域の話題になっている。こうした上に、第九も行われるのである。
第九合唱団は、音楽選択の生徒を中心に、美術・書道選択の中の有志2・3年生が“第九サークル”をつくり練習を行う。1年生のとき聴く側だった者が、歌う側におおくまわるのである。
第九を歌うのは初めてという彼らを短期間でステージに上げる先生の苦労は並大抵ではない。先生と生徒の間を取り持つのが“第九スタッフ”で生徒から選ばれた総責任者1名、副3名、ピアニスト3名、パートリーダ7名である。しかし、毎年続いている原動力は、何といっても参加する生徒一人一人の自覚である。 積極的な姿勢である。
練習には大変な時間と労力を要する。楽譜に忠実な表現に達するまでには、繰り返し繰り返しの厳しい指導が行われる。素人だから、高校生だからというわけにはいかない。本物の第九にちかづけていく。
生徒も自分の力を出し切ってこそ、終演時の聴衆の拍手に「ああ、やってよかった」と自ら実感が得られるだろうし、途中であきらめたり、手を抜いた者には 歓喜は湧き起こらないと思う。
彼らは練習に励むうちに、その曲のすごさが解ってきて、魅力に取りつかれていき、ベートーヴェンの目ざすところにはいっていくだろう。
第九には勇気を鼓舞したり、静かに心を鎮める旋律や、崇高な思いを抱かせる場面など次つぎに現れる。スパイラルに上昇していく気運が随所にある。男女四声のハーモニーがそろうと心が和む。
全員が一つの目標に向かって努力していく姿に感動するようになる。身勝手な行動は許されなくなり、冷静に客観的なかまえになっていく。自分のパートに責任をもち、支えあっていく態度がつくられていく。第九は一人一人の取り組み方によって、ますます輝きを益していく。
青春時代に、こうした体験をもつのは、素晴らしいことだと思う。けっして回り道ではなく、日々の朝の第一歩を踏み出すときの自信につながっていくと思 う。第九には新しい生命を生み出す勢いがある。自分の目標をはっきり掴み、今までよりスピードを出して勉強するようになるであろう。
第九はなぜそんなに強い魅力をもつのか。なぜ世界中で多く演奏され、180年もの間、続いているのだろうか。
カラヤンは「第九は世界中の人々の一番の願いをかなえようとした最高の交響曲である」といったが、ベートーヴェンは「音楽はあらゆる知恵、学問より更に上をゆく天の啓示である」と信じており、人類史上、永遠の課題である戦争のない平和な世界をつくるには、音楽の力を役立てたいと考えたに違いない。
音楽は透明であり純粋である。心臓の鼓動にあっている。だから人の心の奥の奥まで入っていき、魂を呼び醒ますことができる。打算のない美の極致である。 オーケストラを大編成にし、ソロと合唱を入れたのは、そのメッセージを明確に魂にまで届け、新しい人間に生まれ変わらせたかったからであろう。
人間一人一人は弱い存在である。同じ一つの心の中に、善と悪を住まわせている。いつも善が悪に克つとは限らない。悪に打ち克ち、独りよがりの自己欲を抑えて、他者を思いやり兄弟のように仲よく暮らしていくためには、常に良心の強い支えが必要である。それが信仰であるといえないだろうか。
ベートーヴェンが音楽家でありながら、耳の病に冒され、社会から見離されていく自分に耐え切れず、自死の迷路をさまよった果て、救いを神に求めた。そのことをハイリゲンシュタットに於ける遺書の中で次のように書いている、「どうか私の才能の全てを出させて下さい。これからの私の人生を他人のために捧げます。私の内にある全ての作曲を終えるまで、生かさせて下さい」と。神への涙の祈りが22年後の最後の交響曲「第九」を生み出させたといえよう。
彼はこの交響曲の中で神の表現にことさら心を配り、絶妙な表現をしている。神は影・形のない透明な存在であり、音楽でこそ、最も神の表現ができると思ったにちがいない。
神は無になって祈る人の心に映し出される。
音楽・無心・神の3つの共通項は「純粋無垢」である。美しい音楽、偉大な音楽によって純粋無垢な心は育まれていく。芸術による情操教育は感情移入によって、思いやりとか道徳心に深く結び付いていく。
感性にたけた高校生の彼らにこそ「第九」は有効であり、ベートーヴェンのメッセージは受け止められ、人生の糧となっていくことであろう。
息子さんが今年、都立国立高校に入学され、共に歓迎行事で「第九」を聞き感激された親御さんが、自分も第九を歌う経験をしたいと、家が近いこともあって、私たちの合唱団に入団された。12月28日のパルテノン多摩の演奏会に向って、アルトで練習をつづけておられる。

Comments are closed.