バス 宮崎 孝延
今年のナルトの「第九」は、指揮者が西本智実さんということで大いに盛り上がった。合唱団への申し込みは昨年の2倍になり、ほぼ500人ずつ2回に分け、6月1日と2日にわたって行われた。両日とも1600席は満員であった。
本番前の西本さんの練習は1日半しかなかったが、手際よく行われた。一番注意されたのは子音の発音をハッキリすることであった。
本番では前日のラフな服装から想像できなかった黒の優雅なタキシード姿で登場した。私の関心は、第九が男性指揮者と女流のそれとでどうちがうかにあったが、1樂章・2樂章はダイナミックで華麗な振りは、女流カラヤンを思わせた。
私が引き込まれたのは3樂章であった。甘美なゆるやかな旋律が波のようにつづき、しだいに響きはふくらみ、何かを語りかけてくる。「人の愛」であった。 それが上昇し、最初の予兆はくずれるが、次の波は荘厳さを増し、雲間から光が射し込み、「神の愛」を告げるごとくであった。しばらく「人の愛」と「神の愛」の行き来がつづいた。私のこの幻想は、彼女のしなやかなフィンガーアクションにあると思えた。
4樂章。合唱は半ばをすぎ、「星空のかなたに神居いたもう」「汝は創造主を感じられるか」のあたり。彼女は星のまばたきを奏する管弦の響きに、声樂の域を超えた高いソプラノを乗せようと、垂直に伸ばしたタクトの先を宙に向かってくるくると回した。応してソプラノは妙音を天上から降りそそいだ。
いよいよ「第九」大詰めのクライマックス。プレテッシモの嵐のような合唱の勢いを急に断ち切るようなピアニッシモの<Tochter aus Elysium>。いかなる勇敢な突進のなかでも、けっして忘れてはならない他者を思い合う<理想郷>(すべての人々は兄弟になる)を振り返らせるところ。
彼女はその時、振り乱れた髪の毛をかき上げ、モナリザのような微笑みを投げかけた。合唱は、浮き玉のようなエポックをつくった。ここが第九の要(かなめ)であるような気がした。
終演後、聴衆はスタンディングオベーションでたたえ、拍手は鳴りやまなかった。
シラーとベートーヴェンの詩情をたくみに表現した女流指揮者への賛美であった。
(2008.7.25記)