「第九」によって父との和解

バス 橘 義

私が「第九」のメロディーを知ったのは、小学時代、日曜学校で合唱していたときである。父が四国の新居浜で会社員のかたわら、キリスト教活動をしていたので、いやいやながら日曜日には集会に行かざるをえなかった。今から70年前の話である。 私は18歳まで父と同居をしていた。食事の前に祈りがあり、冒頭に「天のお父様」あるいは「在天の神様」といって祈りをはじめるのである。私にはどうしてもなじめず、父と楽しく会話した記憶は少ない。 父は昭和48年、71歳で病死した。墓石の表には聖書の言葉が、裏面には「橘 新(父の名前)ここに眠らず」と刻まれていた。この文句が後日、父と和解する大きな要因となるとはそのとき思わなかった。 話は大きく跳んで約10年ばかり前、私は63歳になり当会に入会した。そして楽譜の理解とともに、シラーの詩について興味をもった。そこに私がかねてから抱いていた人生観と全く同調する部分のあることに驚き、かつ嬉しかった。その部分の「星空のかなたに創造主をもとめよ!星々のもとに創造主が住んでいるに違いない」とへりくだっているところが、特に気に入った。 「第九」を歌っているうちに、私と父の死生感は同じではないかと思うようになった。私は時どき、自分の命が絶えれば、肉体は単なる物体となり、魂は「永遠の生命」を与えられ、天国に行き、星空にかこまれて、俗界を眺めてみたいなと、想像したりする。この思想は父が「天のお父様」と祈っていたこと、墓石に「我、ここに眠らず」と記していること、さらには葬儀に歌った賛美歌「主よ、みもとに近づかん」などと併せ考えると、極めてよく似ていると感ずるようになった。「ここに眠らず」とは、肉体はここ(墓)に置いたまま精神は創造主のところへ行きます」と宣言したものであろう。 私のこの考えを、父は喜んでいるであろう。父が生きている間に互いに話し合って、理解し合っていたら、更にどんなに良かったかと思っている。父は、私の歌う「第九」を、創造主の横で聴いていてくれると信じている。この世に命がある限り歌い続けたい。

(2011年7月加筆)

鳴 門 の「第 九」

バス 宮崎 孝延

今年のナルトの「第九」は、指揮者が西本智実さんということで大いに盛り上がった。合唱団への申し込みは昨年の2倍になり、ほぼ500人ずつ2回に分け、6月1日と2日にわたって行われた。両日とも1600席は満員であった。 本番前の西本さんの練習は1日半しかなかったが、手際よく行われた。一番注意されたのは子音の発音をハッキリすることであった。 本番では前日のラフな服装から想像できなかった黒の優雅なタキシード姿で登場した。私の関心は、第九が男性指揮者と女流のそれとでどうちがうかにあったが、1樂章・2樂章はダイナミックで華麗な振りは、女流カラヤンを思わせた。 私が引き込まれたのは3樂章であった。甘美なゆるやかな旋律が波のようにつづき、しだいに響きはふくらみ、何かを語りかけてくる。「人の愛」であった。 それが上昇し、最初の予兆はくずれるが、次の波は荘厳さを増し、雲間から光が射し込み、「神の愛」を告げるごとくであった。しばらく「人の愛」と「神の愛」の行き来がつづいた。私のこの幻想は、彼女のしなやかなフィンガーアクションにあると思えた。 4樂章。合唱は半ばをすぎ、「星空のかなたに神居いたもう」「汝は創造主を感じられるか」のあたり。彼女は星のまばたきを奏する管弦の響きに、声樂の域を超えた高いソプラノを乗せようと、垂直に伸ばしたタクトの先を宙に向かってくるくると回した。応してソプラノは妙音を天上から降りそそいだ。 いよいよ「第九」大詰めのクライマックス。プレテッシモの嵐のような合唱の勢いを急に断ち切るようなピアニッシモの<Tochter aus Elysium>。いかなる勇敢な突進のなかでも、けっして忘れてはならない他者を思い合う<理想郷>(すべての人々は兄弟になる)を振り返らせるところ。 彼女はその時、振り乱れた髪の毛をかき上げ、モナリザのような微笑みを投げかけた。合唱は、浮き玉のようなエポックをつくった。ここが第九の要(かなめ)であるような気がした。 終演後、聴衆はスタンディングオベーションでたたえ、拍手は鳴りやまなかった。 シラーとベートーヴェンの詩情をたくみに表現した女流指揮者への賛美であった。

(2008.7.25記)



仲間を信じ、平和を求め、今年も「Freude !」

テノール 平野 幸司

これは、2007年11月25日、多摩第九の立川公演前日のリハーサルのことです。 アミュー立川の舞台に再び立てるとは思ってもいなかった感動の日でした。 その7年前、脳梗塞で入院した時(この時のことは『多摩第九20年記念誌』にも書きました)、その12月の最後のステージには立ちたい一心でリハビリに打ち込みました。特に言語障害回復には巻き舌の訓練が大切、と療法士の助言に「第九」の楽譜を持ち込み練習したお蔭で11月の二週目から練習に再び参加、12月15日の「三多摩第九30周年演奏会」の本番を迎え無事打ち上げられたのでした。 その思い出のステージで、バリトンソロを合図に一斉に立ち上がるとき、瞬時に立ち上がれず(もちろん仲間の手助けはありましたが)内心オタオタしてしまい、何とかfreude!の声に間にあったのでした。 舞台の段差が低く、屈むと立ち上がるのに必要な腰(上脚筋)の筋力が弱っていることもあり、また、右手の杖が滑ってしまい役立たずで、精神的に焦るばかりでした。 今年で50年目(第九を歌い始めて)、マア良く続けてきたものだ、我ながら感心しています。時には風邪を引いて本番を休んだことも何回かはありましたが、そうした時は、他の会場の応援に出掛けたりしたのでした。 何でそんなに「第九」をうたい続けて来たのかというと、若い頃(24?)、音楽評論家の山根銀二氏の学習会で「ベートーベンは共和主義者で、当時の反動主義者メッテルニッヒの勢力と戦う気持が強く、権力を否定する動きに味方をし、フランス革命にも共感しナポレオンに『第3交響曲』を捧げようとした話は有名だが、この「第九」は、国際的・国内的な反動勢力の弾圧に対抗する激しい怒りを象徴する作品として作ったのだ」と強調したのでした。 そこで、現在の民主主義革命の立場に立つ一作品として取り上げることに意義を見出し歌うようにとも話され、このことをかみ締めて今年も歌うつもりだし、このように考えると『第九』の精神は『憲法9条』の『平和へのメッセージとして同じ』だと言えると思います。 そう考え今年も歌うつもりです。(でも、本番の時、また、仲間の手の支えが必要か? 昨年、本番の時、後から両脇を支えてくれた仲間の手を信じ・・・)

(2011年7月:修正加筆)



「第九」とシラーの詩

バス 宮崎 孝延

「第九」に取り入れられた「歓喜に寄す」というシラーの詩の全篇は、1785年に書かれたもので、8節93行からなる長いものである。 シラーは、ゲーテと並び称されるドイツの有名な詩人で、沢山の詩を残し、劇作家でもある。大学教授にもなり、著作も多い。 「歓喜に寄す」は、本来、平和と人類愛をモットーにした世界主義の秘密結社〈フリーメーソン〉のために書かれたものである。青年たちに愛唱され、ヨーロッパ各地で広まった。1789年に起きたフランス革命にも影響を及ぼしたといわれる。 ベートーヴェンも15歳の時に、この詩にふれ、しばらくして友人を介してシラー夫人に、この詩の全篇に作曲をしたいと思っていることを告げたほどである。しかし実際に約束を果たしたのは、31年後のことである。 シラーのこの詩に曲をつけた人は大勢いた。40人にものぼり、有名な人には、ケルナー、チャイコフスキー、シューベルト、マスカーニなどがいた。しかしそれらの作品は自然消滅した形になり、ベートーヴェンが「第九」に一部分を取り入れたものが、180年余を経た今日なおひとり輝いているのである。 それはなぜだろうか。そして第九の魅力について述べたいと思う。 彼が作曲をするまでに31年を要したのは、けっして無駄なことではなかった。 名のある家庭に生まれたわけではなく、耳が聞こえないという障害をもち、偏屈者とも呼ばれ、常に腹部に病気がちであった彼が、辛酸をなめながら、才能の限りを尽くして長く芸術の場で闘ってきたことにより、深い精神性が培われ、人びとを励まし、安らぎを与える偉大な作品を生み出す結果になったと思う。 彼の精神的な苦悩は、ハイリゲンシュタットの遺書の中によく表われている。しだいに孤独に落ち入り、自殺を考えるまでになる。しかし命を絶ち切れず、最後に神に救いを求め祈りを捧げる。 「神様がもし私に生きる力を再び与えてくださるなら、才能の全てを人びとのために捧げます。才能の全部を使い果たすまで、どうぞ生かさせてください。」 夢中でそう祈ったとき、不思議に自ら死の淵から這い上がっていたというのである。 いよいよ晩年、「第九」の作曲に集中するきっかけになったのは、その前年、1823年に「ミサ・ソレムニス」〈荘厳ミサ〉が完成したことにあった。これはキリストと聖句の合唱が渾然一体をなしたものである。これに習って「第九」に合唱を入れることを決意する。そこで頭に浮かんだのが、長年、心の隅に温めてきたシラーの「歓喜に寄す」であった。 「第九」が最後の交響曲になるという予感のもとに全身全霊を捧げようとしたとき、いちばん強く思ったのは、目の前に展開している人と人との争い、国と国との戦争のことであった。せっかく長年の王侯貴族の独裁政治から、大衆が市民権を獲得したにもかかわらず、再び反動勢力に右往左往している姿であった。本当に人間が、人間らしく自立するにはどうすればよいのか、それが課題〈テーマ〉になった。 シラーの詩もそこを強調している。全篇から特にテーマに合う部分を取り出し、思いを込めて旋律をつけた。特に山場になったのは、神〈主〉の表現であった。 星空のかなたに、神〈主〉は住んでおられるに違いない。 Uber Sternen muss er wohnen. 人間の心の中には、善と悪の両方が存在する。常に悪に打ち勝ち、善向かうには、自分よりももっと大きな力〈神〉に依るしかないのではないか。彼はハイリゲンシュタットでの経験をもとに、神の表現に力を注いだ。 けっきょく、第4楽章に「歓喜に寄す」の詩〈抜粋〉を入れることによって、骨格のはっきりした、大衆にアピールするものに出来たのである。 世の中を明るいものにしたいというベートーヴェンの誰よりも強い意志がそうさせたのである。 抱き会おう億万の人びとよ、全世界に口づけを! Seid umschlungen,Millionen! Diesen Kuss der ganzen Welt! (万人が愛で地球を覆いかぶさないかぎり、完全な平和は来ない) 神のやさしい御心の中で、全ての人間が兄弟になる。 Alle Menschen werden Bruder.wo dein sanfter Flugel weilt. 〈私たちも、全ての人が兄弟のように、思いやり、助け合う心を持って、幸せな暮らしをしよう。〉 参考文献 武川寛海「第九の全て」日本放送出版協会 この原稿は、本年6月、徳島県鳴門市で行われた、全日本「第九歌う会」連合会 分科会「第九・シラーの詩について」に出席した際作成したものである。

父へのレクイエム

今年途中から練習に参加された、テノールのTさんは、12月10日(日)にパルテノン多摩で第九を歌った後、12月16日(土)に福岡県飯塚市の「嘉穂劇場第九 其の参」でも歌う。 12月15日(金)羽田から福岡に飛び、当日ゲネプロ、翌15日が本番だ。 嘉穂劇場は、江戸時代の歌舞伎様式を伝える芝居小屋である。 大正10年に設立された「中座」がその前身で、中座は昭和5年の台風により倒壊している。嘉穂劇場として、昭和6年に再建され、平成16年には、NPO法人として設立されている。今年9月、国の文化審議会より、登録有形文化財に指定された。 嘉穂劇場の第九は、平成16年12月が最初で、昨年は、12月24日のクリスマスイブに行われた。「其の参」とは、この劇場における第九演奏会が、3回目であることを指す。 ホームページを見ると、舞台にオーケストラ、ソリスト、合唱団が乗り、乗り切れないコーラスは、2階の客席3方に一列で舞台を囲んでいる写真がある。 今年の嘉穂劇場の第九は、ドイツ人フォルカー・レニッケ指揮九州交響楽団、ソリストには、多摩第九でも歌ったことがあるテノールの佐野正一さんを起用している。 Tさんのお母さんは、70歳代で、20回も第九を歌っている。パートは、ソプラノである。お父さんもお母さんと同じ年代で、お母さんの勧めで5回歌っている。パートは、テノールである。ご両親は、息子と共に第九を歌うのが日頃からの夢であった。 仕事が忙しいことと正直あまり関心がなかったため、ご両親の誘いに「そのうちにね。」と答えてきた。 昨年12月の第九終了後、腰に痛みがあった父上は、年が明けてから肺がんが発見され、5月に薬石効なくお亡くなりになる。 Tさんは、父上が亡くなる前、12月24日に歌った嘉穂劇場で、今年、母上と一緒に第九を歌う。両親の夢を果たし、亡き父へのレクイエムのために歌うのである。 しかし、福岡県での練習に毎回参加する訳にはいかない。そこで、東京の第九合唱団で練習をすることとし、インターネットで検索したところ、「多摩市民『第九』をうたう会」があることを知ったのである。 初めはパルテノン多摩での本番は、欠席するつもりだった。あくまで嘉穂劇場の第九でお母さんと共に亡き父へのレクイエムとして歌う第九が目的だった。 しかし、熱心な先生方の指導等に翻意し、パルテノン多摩にも参加することになった。また、箱根での合宿にも参加し、自己紹介の時間に、さまざまな第九への思い入れがあることを知ったそうである。 亡くなったお父さんのご冥福とTさんの嘉穂劇場での第九の成功をこころからお祈り申し上げます。



第九のピッチ

テノール 篠原啓一

いつも深みのあるうんちく話で練習場を「へー」と沸かせる前原先生ですが、時間がたっぷりとれる合宿では、一層話が弾みます。箱根合宿の2日目、11 月4日朝の話題は、オーケストラのピッチでした。演奏会では最初にオーボエが基準の音を吹き、それにコンサートマスターが合わせ、さらに全員が合わせていくチューニングという作業があります。実は基準となる音の高さが、オーケストラによって、時代によって違うというのです。 現在は一般的にA(ラ)の音を440ヘルツと決めており、楽器屋さんでは、鉄棒をU字型にした音叉と呼ばれる道具が売られています(最近は簡便な電子機器が出ている)。時報の「ポ、ポ、ポ、ポーン」という音もラの音で、最初の低い3つの音が220ヘルツ、最後の高い音がオクターブ上の440ヘルツのラです。 このラの音が、時代とともにだんだん高くなってきているのです。バロック時代には415ヘルツだったのが、今は440ヘルツが普通になり、演奏者によってはもっと高く、450ヘルツぐらいに合わせることもあるそうです。 前原先生によると、音が高くなってきた一番大きな理由は、高くすることで音に張りが出て輝きを増すからで、20世紀を代表するカラヤンなども高かったということです。レコードやカセットテープを聞いていた少し昔は、音程の違いは再生機の違いによることがよくありましたが、演奏そのものの音程にも違いが あったわけですね。 輝きも結構ですが、私など第九のテノールの最高音であるラの音が歌える限界なので、ピッチが少しでも高くなると声が出なくなってしまいます。ピッチの変更は、楽器は楽でしょうが合唱団にとっては大問題ですね。 さてそこで、私は合宿から帰って、さっそく、手元にあるCDとMDで第九の演奏のピッチを片っ端から調べてみました。その結果は下の表の通りです。現代 のオーケストラの多くは442ヘルツで、カラヤンは450ヘルツで確かに高い。古楽器オケを指揮したヘレヴェッヘは432ヘルツでかなり低く、小川典子のピアノ版はピアノの調律が440ヘルツで変えなかったのでしょう。ちなみに多摩管弦楽団と共演した2003年の第九は440ヘルツでした。さて今年は何ヘルツでしょうか。

指揮者 オーケストラ 録音年 ピッチ 備考 ウィルヘルム・フルトヴェングラー バイロイト祝祭管弦楽団 1955 440 . . . → Read More: 第九のピッチ

箱根芸術紀行

バス YS生

11月の3連休に第九の合宿に参加した。場所は、神奈川県箱根町芦の湯。旧東海道沿いに江戸時代からある温泉旅館「きのくにや」である。 11月3日(文化の日)と翌4日の土曜日が合宿日である。11月の三連休は、5月のゴールデンウイークに次いで箱根に客が押し寄せる。湯元温泉では、恒例の大名行列も行われる。このことを知った私は、なにかこの混雑を避け、一石二鳥の案はないかと考えた。 平成16年から五反田駅へ通っている。内回りの山手線が、五反田駅に入る手前に、ポーラ化粧品の本社ビルに、ポーラ美術館という、垂れ幕があるのがいつも気にかかっていた。箱根のどこかにあるのだが、判然としない。 そこで、インターネットで検索すると、ポーラ美術館は、仙石原にあることが判明した。ホームページの電車バスの利用の場合の案内を見て、新宿から東名高速を通る小田急バスに乗り、仙郷楼前で下車し、施設めぐりバスに乗り換えればいけることが判明した。 美術館から芦の湯までは、小涌園でバスに乗り換えればいけることが、美術館に電話して判った。ということで、10月31日に新宿の小田急ハルクにあるチケット販売所に立ち寄った。小田急バスのホームページで、時間表を調べ、始発が6時30分だが、いくらなんでも早すぎるので、7時の便にした。 9時過ぎに小田急バスを降り、乗りかえれば、開館時間からいい時間に着くものと思っていた。 まだ暗いうちに家を出かけた。新宿へは、バスの始発に間に合う時間に着いた。おかげで朝の混雑していない時間帯の街のウオッチングをすることとした。横断歩道の下、ハルクの前に、ホームレスの姿があった。 バスは定刻に発車。発車前から、東名が混雑で、1時間位遅れるとのアナウンスがあった。甲州街道から、山手通、246までは順調だった。瀬田から東名に乗ったバスは、たちまち渋滞に巻き込まれた。しかし、大和を過ぎるあたりから動き出し、70分遅れで乗換のバス停に到着。約1時間遅れで今日最初の目的地に着いた。折から、美術館は企画展で、「ドガ,ダリ,シャガールのバレエー美術の身体表現」をやっていた。 受付でチケットと音声ガイドを借り、エスカレーターで降りると下の二つのフロアが展示場所である。化粧道具ー世界の櫛-日本、アフリカ、オセアニアでは、江戸時代高級遊女が使った鼈甲に金細工をしたものが印象に残った。 次の部屋では、東洋陶器ー画家の愛したやきものー鑑賞陶器のはじまり。景徳鎮のものや色鍋島らの見事な陶器磁器と一緒に、安井曽太郎や梅龍の東洋陶器を 使ったバラの花がみごとだった。 ここで、昼食の混雑を避けるためと朝早かったのでお腹が空き、レストランへ。11時過ぎ。すでに一組の客。コース料理を注文する。こつこつという音をして静かに歩く足音。メニューを説明するボーイの声。向かいの山は、紅葉が少し始まっており、その緑と赤の色彩の中から、雲が湧いているさま。よく耳をすませば聞こえるクラッシク音楽。お待たせしましたの声で、ウエイトレスが洋皿を置く。肉とポテト他。ソースが微妙。パンもほどよい。ミルク紅茶を飲み満足して後半に赴く。 ドガは、バレリーナの油絵で有名。昔パリの印象派美術館で見たことを思い出す。多くの油絵の中に、ドガのブロンズ像のスパニッシュダンスの大胆で優雅な曲線。ドガは、この作品を発表することは考えておらず、死後アトリエから発見された破片から修復されたものである。 シャガールのダフニスとクロエ物語につけた小さな版画の数々。会場には、ラベルのダフニスとクロエが流れる。色彩と独特な人物表現に感心する。 ルオーのスペイン女もいい。好きになれないダリは、通過するだけ。どの会場も大きな声で話すマナーの悪い客が多い。 宿には、練習開始前に到着。温泉がいい。練習は、精鋭ぞろいで、実に丁寧に練習できた。 懇親会での自己紹介でそれぞれの第九に対する思い入れが判る。先日、前原先生の演奏会の日にピンチヒッターで来られた冨田先生が高野先生の大学時代の同級生だったとは。 翌日の、前原脱線音楽講座は、転覆する寸前で練習に戻る。時代と共に上がってきた、ピッチの話に感心する。リヒャルト・シュトラウスやメンゲルべルグ。ピッチを調整できるCDプレイヤーがあるのには驚いた。なぜ段々上がるのかの問いに、派手になるから。魔笛で歌う夜の女王役は、ピッチが上がるに連れて、歌える人が少なくなっているなど面白かった。 私にとって、この2日間は、目から鱗であった。

燻し銀のバリトン--平田典之先生

バス 三枝康夫

今朝雨戸を開けると、お茶の生け垣の上に、ブルーヘイブンの青い花が寒さにめげず咲き誇っているのが目に入った。右に目を転じれば、柿の葉がすっかり紅葉している。 今日は、金曜日、今週も今日で終わりだ。いつもは、疲労感が漂っている朝なのに、今日はそれがない。どうして。ああ、そうだ。水曜日の晩、上野の文化会館で聞いた平田先生がくれた幸福感が、まだ今朝まで効いているのだ。 平田先生のコンサートにでかけるようになって、もう19年になる。パルテノン多摩、サントリーホール、東村山市のホール、牛込のホールなど、いつも平田先生と田手先生のコンサートは、私に至福の時を呉れてきた。 東京文化会館で、先生の演奏を聴くのは初めてだ。正直いってちょっと心配だった。しかし、それも先生の声を聞いた途端吹っ飛んでしまった。 曲は、ベルデイの、「椿姫」第2幕から、パリ郊外のヴィオレッタの屋敷である。あらすじは、次のとおりである。 青年貴族アルフレード・ジェルモンと、貴族をスポンサーにもつ娼婦ヴィオレッタ・ヴァレリーの出会いから月日が経った。ヴィオレッタは貴族のパトロンとの華やかな生活を捨て、アルフレードと静かに暮らすことを選んだのである。彼女との生活の幸福を語るアルフレードは、帰宅した召使いから、生活費を捻出するため、ヴィオレッタが財産を売却していたことを聞き、気がつかなかった自分を恥じると共に、売った物を取り戻そうとパリに向かう。 そこへヴィオレッタが登場し、彼のパリ行きを聞き、いぶかる。—ここからが先生と教え子の宗田舞子さんの登場である。 先生の役は, アルフレードの父親、ジョルジュ・ジェルモンである。父親の突然の来訪に、驚きながらも礼儀正しく迎える彼女に、彼はあたりを見回し「息子をたぶらかして、ずいぶんと贅沢な暮らしをしていますな」といきなりなじるので、ヴィオレッタは「私の家で女の私に失礼なことを言わないでください」毅然と応じ、たじたじとなるジェルモンに秘密を打ち明ける。彼女が自分の財産を息子との生活のために手放しつつあることを知ったジェルモンは非礼を詫びる。アルフレードをどんなにか愛しているか、と理由を説明する彼女に対し、ジェルモンは本題を切り出す。息子と別れてくれというのである。駄目です、と即座に断るヴィオレッタに、彼はアルフレードの妹の縁談に差し支えるから、助けて欲しいと迫る。ついに要求を受け入れ、身を引くことを彼女は決心する。しかし単に家を去ってもアルフレードは追いかけてくるだろう。方法は任せてくださいと請合うヴィオレッタに礼を言って、父ジェルモンはいったん去る。

先生の演じた役は、常識的な中年男性の典型というよりも家庭を大事にする健全な市民の代表である。道を踏み外した女は絶対に許さない一般世間の考え方を代弁する役である。 通常は、高い音も出る輝かしいバリトンで歌われることが多いらしい。家でマリア・カラスのCDを聞いてみると確かにそうである。 先生は、渋いいぶし銀のような声で歌っていた。これは、どういうことなのか。どのような意図であのように歌ったのか。不自然さは、まったくなかった。むしろ世間の常識が間違っているような気もする。

先生の演奏が終わって、ホールの外へ。よかったねと話す人が多い。山手線で帰宅の途に。 あの渋さ、ハンス・ホッターに似ている。違う。やはり平田先生独自のものだ。 まったく素晴らしい演奏会だった。今度、箱根の合宿でゆっくりお聞きするとしよう。



左手のピアニスト

バス YS11

今、舘野泉という音楽家が、左手のピアニストとして、世間の注目を集めている。私は、1974年、銀座のヤマハホールで一度だけ舘野の演奏を聞いたことが ある。ヴァイオリンの浦川宣也との二重奏だった。グリーグのヴァイオリンソナタほかだった。しみじみとした演奏会だったことは、まだ記憶にある。 彼は、2001年脳溢血で倒れ、右半身不随の後遺症が残り、ピアニストの命ともいうべき右手の自由を失った。40年にもわたりピアニストとして活躍してきた者にとって、それは死刑宣告にも等しいものだった。失意の日々を送っていた彼に、再起への手がかりとなったのが、息子から贈られた「左手のための曲」の楽譜だった。彼は心躍るものを感じ、再びピアノに向かう。 左手のためのピアノ曲といえば、ヴィットゲンシュタインという名が出てくる。第一次世界大戦で右手を失い、その後左手のピアニストとして活躍している。ラベルの左手のための協奏曲が有名だ。他にも、プロコフィエフやヒンデミットも彼の求めに応じ曲を書いている。彼がいなければ、これらの曲は世に生まれてこなかったといえる。 日本でも舘野ほど世間の注目を浴びているわけではないが、こつこつとひたむきに人生を歩んでいるピアニストがいる。中島章雄さんといい、現在は中央区にお住まいだが、長年、多摩ニュータウンに暮らしてきた方だ。 彼は、寿司職人の家に生まれ、生まれてまもなく父を亡くす。彼の母は、3つ上の姉と彼の、二人の子供を育てるために、人には言えない苦労を重ねた。 母親の愛情のもとすくすくと成長し、生まれつき手が大きかった彼は、習い事として、はじめオルガンを習い、その後ピアノも習うようになる。都立高校を卒業後、晴れて学芸大学のピアノ専攻コースに合格する。しかし、悲劇は、突然訪れる。大学一年の時、脳腫瘍を発症し、右半身に障害が残る。彼は、音楽への道をあきらめざるを得なくなるのだ。 一家は、1971年から入居が始まった愛宕団地に転地した。 失意の日々を送る彼に声をかけたのは、長沢淑郎さんだった。1987年、パルテノン多摩が開館することになり、アマチュアの多摩管弦楽団がベートーヴェンの第九交響曲を柿落としとして演奏することとなった。オーケストラの呼びかけでコーラスが集められた。そのリーダーとして選ばれたのが、いろいろな団体で活躍し、彼と同じ団地に住んでいる長沢さんだった。 長沢さんは、団地の会長をやっている関係で、失意の日々を送る彼のことを知っていた。音楽をやっていたことを人づてに聞いた長沢さんは、中島さんに第九をやらないか、自分でできることでいいから運営委員も引き受けてくれないかともちかける。 これが、中島さんの音楽への、いや人生への再起の契機となる。彼は、第九によってすっかり元気を取り戻し、リハビリも兼ねて左手によるピアノの練習にも精を出すようになる。その後著名な書店に勤めることになり生活も安定してきた彼は、やがて、自分と同じような状況にある障害者を励ますため、左手でピアノを人前でも演奏するようになる。毎年第九が行われるパルテノン多摩では、1994年11月23日の家族の日に、ジュニアオーケストラとラベルの左手のための協奏曲を弾いた。指揮は、国分誠であった。彼が得意とするのは、自分で編曲した滝廉太郎の荒城の月変奏曲である。 彼の母も、息子と一緒に第九に参加することとなり、徳島県の鳴門や香川県の高松にも第九を歌いに出かけ、親子のファンも増えた。また、鳴門の人と一緒に親子でドイツでも第九を歌った。 彼は、第九の練習のため、毎週日曜日には、多摩市に通う。今年11月の箱根での第九の合宿には初日だけ参加した。それは、翌日仕事があったからだ。 彼は、第九の仲間から、「しょうちゃん」と親しみを込めて呼ばれている。彼がやさしさそのものだからだ。色々なことがあっても少しもめげないように見える彼だが、音楽への意気込みは、最近ますます盛んである。再び同じような境遇にある人々を慰問に出かける予定である。 昨日、バッハの左手のピアノのためのシャコンヌを聞いた。むろん、無伴奏のヴァイオリンのために書かれた曲だ。ギターやオーケストラにも編曲されている。過日パルテノン多摩にも来た、ロシアのピアニストであるウゴルスキのCDである。ブラームスが編曲し、クララ・シューマンに捧げた。当時、クララは右手の肘を脱臼していたため、慰めるために編曲したといわれている。 このCDを聞いたことが、この文章を書く動機ともなった。 中島章雄さんのますますのご活躍を心から期待するものである。

(2006.11.9)