前原先生への感謝

バス 宮崎 孝延

私たちが、初回から22年間、ご指導をいただいた前原信彦先生がお辞めになるのを知ったのは、昨年、パルテノン多摩での演奏会が終わった直後でした。控え室に全員が引上げてきた時、突然の先生の辞意表明に私たちは息をのみました。 その年の先生のご指導は殊のほか微に入り細に入り厳しく、「今年はちょっと違うな」という声が皆から聞かれました。先生の熱心さに私たちも、本気になってついて行きました。その甲斐があったのでしょうか、本番の「第九」終演と共に、客席から「ウワァー」という喚声が起こりました。「こんな第九、初めてだ」という讃美の声に聞えました。 本番での田代先生の情感あふれる指揮と、相模原交響楽団の熱演、それにソリストと合唱団が加わった総合力のおかげでしょうが、何といっても前原先生が私たちを厳しく鍛えて下さったからだと言えます。 先生は辞任の理由について、何もおっしゃいませんでしたが、きっと私たち以上に先生を必要とする人たちがおられたからだと思います。本当に、前原先生、長いこと有難うございました。厚く御礼申し上げます。 私たちは先生の後をけがさないように、しっかり「第九」をつづけていきます。

(2009年7月:記)

ようこそ私たちの合唱団へ

バス 宮崎 孝延

7月5日の総会は、多くの新会員を迎えて、今年の第23回・第九演奏会に向かっての出発式、結団式といえるものでした。私たちは、毎年、第九演奏会が終了とともに解散し、次の年の7月前後に、新たな出発をしているのです。 私たち合唱団は、多摩地域の文化活動の拠点として「パルテノン多摩」が建設されたとき、こけら落としに「第九」演奏会が計画され、その合唱団として多摩市民を中心に結成されたのが起源です。 1987年(昭和62)のことで、それから23年目となりました。1年1年、一生懸命育て上げてきたのです。最近の演奏会のお客様は1000人を越えるほどになりました。共演のオーケストラも、近隣の有数の方々との機会が多く、地域に根ざして、しかも都心の「第九」より迫力があると定評があります。 今年の共演する多摩管弦楽団は、パルテノン多摩における「第九」初演の時のオーケストラであり、私たち合唱団と深いつながりがあります。 先人たちの努力を無にすることなく、「初心 忘るべからず」で、新会員の皆様と一緒に、多摩の「第九」をつくっていきましょう。私たちは心からの仲間です。

多摩の春

第九にひそむ鰻

バス 名倉 康秋

A子さんはこの春、ウイーンの楽友協会大ホールで「第九」を歌うツアーに参加した。ウイーン在住の友人K子さんとの久しぶりのおしゃべり、そして憧れの ホールでの舞台、それに続く楽しい打上げ。軽い疲労を覚えながらA子さんはホテルに戻った。 電話が鳴った。受話器をとるとK子さんの声である。 「A子っ、演奏はまあまあだったけど、貴方達もっとドイツ語を勉強しなきゃ駄目よ」。

彼女の話はこうである。 演奏を聴き終わり道路に出たK子さんのすこし前を、声高に笑いながら行く若者の一団があった。気になったK子さんは小走りに追いついた。 「Aale、Aale・・・・・」という声が耳に入った。「あヽ、やっぱり」と彼女はとっさに彼らの笑いの意味を悟った。「alle Menschen・・・」を「Aale(鰻) Menschen・・・」と聴いた彼らは、それを笑いの種にして、楽しそうにはしゃいでいた。 その一団が街角を曲がって行くのを見送りながら、K子さんは「これはどうしてもA子に伝えなければ、伝えなければ」と思いながら、石畳の夜道を歩いた。

帰宅してやっと一息ついたA子さんは、「いつも先生に注意されているのは本当なんだな」と思いながらレコードを聴いてみることにした。「お手本はこれを措いて他にない」と選んだのは、カラヤン指揮のベルリンフィルのLP。合唱はウイーン楽友協会合唱団、そして会場はあのホール。 問題の箇所を聴いてみる。「うーん」、違うようでもあるが「Aale」に聞こえないことも無い。「ドイツ人が『うなぎ』と歌うはずは無い」と思いながら繰り返し聴いても、どうも釈然としない。他のCDを聴いてみるが、どれも「ビミョー」である。 「結局、日本人にはわからないのかなぁ」、「外国語を身につけるのは難しいなぁ」。 A子さんは、今つくづくそう思っている。

おわり

[注] Aale(鰻)の発音は[a:lə],alle(全の)は[’alə]

国立高校の第九演奏会とベートーヴェンのメッセージ

バス 宮崎 孝延

今年、4月30日、都立国立高校の「第九演奏会」を聴きに行った。指揮は中堅として第一人者の広上淳一氏で、オーケストラは日本フィルハーモニー。ソリストも一流である。合唱は同校の2・3年生の有志420人。 会場の“府中の森芸術劇場どり-むホール”の客席は新入生全員と父母で埋めつくされ、若干の空席にOBや学校関係の招待者が座った。 広上氏の躍動的な指揮に、青春まっただ中の張りのある合唱が響きわたった。よくここまでと思うほどの出来映えであった。演奏が終わると大きな拍手が沸き起こり、しばらく続いた。間をおかず生徒の一人が指揮台に上がり、オーケストラの伴奏で、ステージと客席が一つになって校歌の大合唱が始まった。渦潮のような大きなうねりが、全館をゆるがせた。 今年が32回という伝統行事なのだが、そもそもの起こりは、新入生の歓迎行事として何かよいものがないかという話に、どうせやるなら、新入生をびっくりさせるものがよいということになり、音楽の先生の提案で「第九」をやることに決まったというのである。 国立高校は進学校として名高い上に、文武両道主義で、部活動も盛んである。国高祭といって文化祭、体育祭も地域の話題になっている。こうした上に、第九も行われるのである。 第九合唱団は、音楽選択の生徒を中心に、美術・書道選択の中の有志2・3年生が“第九サークル”をつくり練習を行う。1年生のとき聴く側だった者が、歌う側におおくまわるのである。 第九を歌うのは初めてという彼らを短期間でステージに上げる先生の苦労は並大抵ではない。先生と生徒の間を取り持つのが“第九スタッフ”で生徒から選ばれた総責任者1名、副3名、ピアニスト3名、パートリーダ7名である。しかし、毎年続いている原動力は、何といっても参加する生徒一人一人の自覚である。 積極的な姿勢である。 練習には大変な時間と労力を要する。楽譜に忠実な表現に達するまでには、繰り返し繰り返しの厳しい指導が行われる。素人だから、高校生だからというわけにはいかない。本物の第九にちかづけていく。 生徒も自分の力を出し切ってこそ、終演時の聴衆の拍手に「ああ、やってよかった」と自ら実感が得られるだろうし、途中であきらめたり、手を抜いた者には 歓喜は湧き起こらないと思う。 彼らは練習に励むうちに、その曲のすごさが解ってきて、魅力に取りつかれていき、ベートーヴェンの目ざすところにはいっていくだろう。 第九には勇気を鼓舞したり、静かに心を鎮める旋律や、崇高な思いを抱かせる場面など次つぎに現れる。スパイラルに上昇していく気運が随所にある。男女四声のハーモニーがそろうと心が和む。 全員が一つの目標に向かって努力していく姿に感動するようになる。身勝手な行動は許されなくなり、冷静に客観的なかまえになっていく。自分のパートに責任をもち、支えあっていく態度がつくられていく。第九は一人一人の取り組み方によって、ますます輝きを益していく。 青春時代に、こうした体験をもつのは、素晴らしいことだと思う。けっして回り道ではなく、日々の朝の第一歩を踏み出すときの自信につながっていくと思 う。第九には新しい生命を生み出す勢いがある。自分の目標をはっきり掴み、今までよりスピードを出して勉強するようになるであろう。 第九はなぜそんなに強い魅力をもつのか。なぜ世界中で多く演奏され、180年もの間、続いているのだろうか。 カラヤンは「第九は世界中の人々の一番の願いをかなえようとした最高の交響曲である」といったが、ベートーヴェンは「音楽はあらゆる知恵、学問より更に上をゆく天の啓示である」と信じており、人類史上、永遠の課題である戦争のない平和な世界をつくるには、音楽の力を役立てたいと考えたに違いない。 音楽は透明であり純粋である。心臓の鼓動にあっている。だから人の心の奥の奥まで入っていき、魂を呼び醒ますことができる。打算のない美の極致である。 オーケストラを大編成にし、ソロと合唱を入れたのは、そのメッセージを明確に魂にまで届け、新しい人間に生まれ変わらせたかったからであろう。 人間一人一人は弱い存在である。同じ一つの心の中に、善と悪を住まわせている。いつも善が悪に克つとは限らない。悪に打ち克ち、独りよがりの自己欲を抑えて、他者を思いやり兄弟のように仲よく暮らしていくためには、常に良心の強い支えが必要である。それが信仰であるといえないだろうか。 ベートーヴェンが音楽家でありながら、耳の病に冒され、社会から見離されていく自分に耐え切れず、自死の迷路をさまよった果て、救いを神に求めた。そのことをハイリゲンシュタットに於ける遺書の中で次のように書いている、「どうか私の才能の全てを出させて下さい。これからの私の人生を他人のために捧げます。私の内にある全ての作曲を終えるまで、生かさせて下さい」と。神への涙の祈りが22年後の最後の交響曲「第九」を生み出させたといえよう。 彼はこの交響曲の中で神の表現にことさら心を配り、絶妙な表現をしている。神は影・形のない透明な存在であり、音楽でこそ、最も神の表現ができると思ったにちがいない。 神は無になって祈る人の心に映し出される。 音楽・無心・神の3つの共通項は「純粋無垢」である。美しい音楽、偉大な音楽によって純粋無垢な心は育まれていく。芸術による情操教育は感情移入によって、思いやりとか道徳心に深く結び付いていく。 感性にたけた高校生の彼らにこそ「第九」は有効であり、ベートーヴェンのメッセージは受け止められ、人生の糧となっていくことであろう。 息子さんが今年、都立国立高校に入学され、共に歓迎行事で「第九」を聞き感激された親御さんが、自分も第九を歌う経験をしたいと、家が近いこともあって、私たちの合唱団に入団された。12月28日のパルテノン多摩の演奏会に向って、アルトで練習をつづけておられる。

七十の手習い

テノール 髙野 吉司

「なぜ、第九をうたう会に入会されたの?」 「歌が好きだから、ですかね・・」 「それだけ?」 「いや、学生の頃、ドイツ研究会というサークルでアン・ディ・フロイデなど歌っていたから、少しは歌えるかなと思って・・」 「合唱団は初めて?」 「昭和37年頃、新声会という合唱団に入会して“ミュージカル南太平洋”とか“レクイエム”などの合唱をしたことはありますが、1年ちょっとで札幌に転勤になり途絶えてしまいました。」 「結局、何が一番の動機なの?」 「おそらく全てですね。合唱の魅力が分かりかけたころ中断してしまったので心残りだったんでしょうね。それで宮崎さんから誘われた時つい気軽にその気になってしまったんですよ!」 しかしこれは大きな誤解であった。もうかれこれ45年ものあいだ、楽譜を手にすることはなかったので、いざとなると音符を必死に目で追っていっても音の方が先に逃げてしまう。 ハイドンの「来たれ、やさしき春よ!」のうちはまだよかったが、「第九」が進んでくると内心“しまった!”と後悔した。これほど難しいとは思わなかったが、もはや後の祭りである。 「さあーて困った!」と帰途考えた。 その昔、大徳寺の住職、一休禅師が臨終の時、「困ったときに開け!」と言って残した袋がある。いざお寺の一大事という時にその袋を開いたら、「なるようになる、心配するな!」とだけ書いてあった。これは“開き直れ!”という意味であろう。私もそれに倣い、開き直ることにした。 60歳の還暦を記念して『天下布武の果てに』という歴史小説を書いたが、「70歳を記念して『第九』を歌えるのも実に幸せなことだ。」と前向きに考えることにしたら少し気が楽になった。 前原先生のドイツ語の発音のご指導は実に難しいが、学生時代を想い出してなつかしく思えるし、平田先生や田手先生の発声練習はお二人の声のすばらしさに圧倒されながらも楽しく思える。女性のソプラノ、アルトの声は天国から聞こえてくるようで美しいし、男性のバスの声は地の底から聞こえてくるようで腹に響き心地よい。テノールの声は両側から押しつぶされてしまいそうで不安であるが、先輩諸氏の声に勇気づけられて、なんとか続けられそうに思えてきた。 パルテノン多摩大ホールでの演奏会のCDを聴き、今年の12月28日にその中の一員として舞台に立っている姿を想像すると、“七十の手習い”もまんざらではなさそうだと思えるようになった。 しかし、まだまだ不安の種は尽きそうにもない。

(2008.10.7記 )



「第九」によって父との和解

バス 橘 義

私が「第九」のメロディーを知ったのは、小学時代、日曜学校で合唱していたときである。父が四国の新居浜で会社員のかたわら、キリスト教活動をしていたので、いやいやながら日曜日には集会に行かざるをえなかった。今から70年前の話である。 私は18歳まで父と同居をしていた。食事の前に祈りがあり、冒頭に「天のお父様」あるいは「在天の神様」といって祈りをはじめるのである。私にはどうしてもなじめず、父と楽しく会話した記憶は少ない。 父は昭和48年、71歳で病死した。墓石の表には聖書の言葉が、裏面には「橘 新(父の名前)ここに眠らず」と刻まれていた。この文句が後日、父と和解する大きな要因となるとはそのとき思わなかった。 話は大きく跳んで約10年ばかり前、私は63歳になり当会に入会した。そして楽譜の理解とともに、シラーの詩について興味をもった。そこに私がかねてから抱いていた人生観と全く同調する部分のあることに驚き、かつ嬉しかった。その部分の「星空のかなたに創造主をもとめよ!星々のもとに創造主が住んでいるに違いない」とへりくだっているところが、特に気に入った。 「第九」を歌っているうちに、私と父の死生感は同じではないかと思うようになった。私は時どき、自分の命が絶えれば、肉体は単なる物体となり、魂は「永遠の生命」を与えられ、天国に行き、星空にかこまれて、俗界を眺めてみたいなと、想像したりする。この思想は父が「天のお父様」と祈っていたこと、墓石に「我、ここに眠らず」と記していること、さらには葬儀に歌った賛美歌「主よ、みもとに近づかん」などと併せ考えると、極めてよく似ていると感ずるようになった。「ここに眠らず」とは、肉体はここ(墓)に置いたまま精神は創造主のところへ行きます」と宣言したものであろう。 私のこの考えを、父は喜んでいるであろう。父が生きている間に互いに話し合って、理解し合っていたら、更にどんなに良かったかと思っている。父は、私の歌う「第九」を、創造主の横で聴いていてくれると信じている。この世に命がある限り歌い続けたい。

(2011年7月加筆)

鳴 門 の「第 九」

バス 宮崎 孝延

今年のナルトの「第九」は、指揮者が西本智実さんということで大いに盛り上がった。合唱団への申し込みは昨年の2倍になり、ほぼ500人ずつ2回に分け、6月1日と2日にわたって行われた。両日とも1600席は満員であった。 本番前の西本さんの練習は1日半しかなかったが、手際よく行われた。一番注意されたのは子音の発音をハッキリすることであった。 本番では前日のラフな服装から想像できなかった黒の優雅なタキシード姿で登場した。私の関心は、第九が男性指揮者と女流のそれとでどうちがうかにあったが、1樂章・2樂章はダイナミックで華麗な振りは、女流カラヤンを思わせた。 私が引き込まれたのは3樂章であった。甘美なゆるやかな旋律が波のようにつづき、しだいに響きはふくらみ、何かを語りかけてくる。「人の愛」であった。 それが上昇し、最初の予兆はくずれるが、次の波は荘厳さを増し、雲間から光が射し込み、「神の愛」を告げるごとくであった。しばらく「人の愛」と「神の愛」の行き来がつづいた。私のこの幻想は、彼女のしなやかなフィンガーアクションにあると思えた。 4樂章。合唱は半ばをすぎ、「星空のかなたに神居いたもう」「汝は創造主を感じられるか」のあたり。彼女は星のまばたきを奏する管弦の響きに、声樂の域を超えた高いソプラノを乗せようと、垂直に伸ばしたタクトの先を宙に向かってくるくると回した。応してソプラノは妙音を天上から降りそそいだ。 いよいよ「第九」大詰めのクライマックス。プレテッシモの嵐のような合唱の勢いを急に断ち切るようなピアニッシモの<Tochter aus Elysium>。いかなる勇敢な突進のなかでも、けっして忘れてはならない他者を思い合う<理想郷>(すべての人々は兄弟になる)を振り返らせるところ。 彼女はその時、振り乱れた髪の毛をかき上げ、モナリザのような微笑みを投げかけた。合唱は、浮き玉のようなエポックをつくった。ここが第九の要(かなめ)であるような気がした。 終演後、聴衆はスタンディングオベーションでたたえ、拍手は鳴りやまなかった。 シラーとベートーヴェンの詩情をたくみに表現した女流指揮者への賛美であった。

(2008.7.25記)



仲間を信じ、平和を求め、今年も「Freude !」

テノール 平野 幸司

これは、2007年11月25日、多摩第九の立川公演前日のリハーサルのことです。 アミュー立川の舞台に再び立てるとは思ってもいなかった感動の日でした。 その7年前、脳梗塞で入院した時(この時のことは『多摩第九20年記念誌』にも書きました)、その12月の最後のステージには立ちたい一心でリハビリに打ち込みました。特に言語障害回復には巻き舌の訓練が大切、と療法士の助言に「第九」の楽譜を持ち込み練習したお蔭で11月の二週目から練習に再び参加、12月15日の「三多摩第九30周年演奏会」の本番を迎え無事打ち上げられたのでした。 その思い出のステージで、バリトンソロを合図に一斉に立ち上がるとき、瞬時に立ち上がれず(もちろん仲間の手助けはありましたが)内心オタオタしてしまい、何とかfreude!の声に間にあったのでした。 舞台の段差が低く、屈むと立ち上がるのに必要な腰(上脚筋)の筋力が弱っていることもあり、また、右手の杖が滑ってしまい役立たずで、精神的に焦るばかりでした。 今年で50年目(第九を歌い始めて)、マア良く続けてきたものだ、我ながら感心しています。時には風邪を引いて本番を休んだことも何回かはありましたが、そうした時は、他の会場の応援に出掛けたりしたのでした。 何でそんなに「第九」をうたい続けて来たのかというと、若い頃(24?)、音楽評論家の山根銀二氏の学習会で「ベートーベンは共和主義者で、当時の反動主義者メッテルニッヒの勢力と戦う気持が強く、権力を否定する動きに味方をし、フランス革命にも共感しナポレオンに『第3交響曲』を捧げようとした話は有名だが、この「第九」は、国際的・国内的な反動勢力の弾圧に対抗する激しい怒りを象徴する作品として作ったのだ」と強調したのでした。 そこで、現在の民主主義革命の立場に立つ一作品として取り上げることに意義を見出し歌うようにとも話され、このことをかみ締めて今年も歌うつもりだし、このように考えると『第九』の精神は『憲法9条』の『平和へのメッセージとして同じ』だと言えると思います。 そう考え今年も歌うつもりです。(でも、本番の時、また、仲間の手の支えが必要か? 昨年、本番の時、後から両脇を支えてくれた仲間の手を信じ・・・)

(2011年7月:修正加筆)



「第九」とシラーの詩

バス 宮崎 孝延

「第九」に取り入れられた「歓喜に寄す」というシラーの詩の全篇は、1785年に書かれたもので、8節93行からなる長いものである。 シラーは、ゲーテと並び称されるドイツの有名な詩人で、沢山の詩を残し、劇作家でもある。大学教授にもなり、著作も多い。 「歓喜に寄す」は、本来、平和と人類愛をモットーにした世界主義の秘密結社〈フリーメーソン〉のために書かれたものである。青年たちに愛唱され、ヨーロッパ各地で広まった。1789年に起きたフランス革命にも影響を及ぼしたといわれる。 ベートーヴェンも15歳の時に、この詩にふれ、しばらくして友人を介してシラー夫人に、この詩の全篇に作曲をしたいと思っていることを告げたほどである。しかし実際に約束を果たしたのは、31年後のことである。 シラーのこの詩に曲をつけた人は大勢いた。40人にものぼり、有名な人には、ケルナー、チャイコフスキー、シューベルト、マスカーニなどがいた。しかしそれらの作品は自然消滅した形になり、ベートーヴェンが「第九」に一部分を取り入れたものが、180年余を経た今日なおひとり輝いているのである。 それはなぜだろうか。そして第九の魅力について述べたいと思う。 彼が作曲をするまでに31年を要したのは、けっして無駄なことではなかった。 名のある家庭に生まれたわけではなく、耳が聞こえないという障害をもち、偏屈者とも呼ばれ、常に腹部に病気がちであった彼が、辛酸をなめながら、才能の限りを尽くして長く芸術の場で闘ってきたことにより、深い精神性が培われ、人びとを励まし、安らぎを与える偉大な作品を生み出す結果になったと思う。 彼の精神的な苦悩は、ハイリゲンシュタットの遺書の中によく表われている。しだいに孤独に落ち入り、自殺を考えるまでになる。しかし命を絶ち切れず、最後に神に救いを求め祈りを捧げる。 「神様がもし私に生きる力を再び与えてくださるなら、才能の全てを人びとのために捧げます。才能の全部を使い果たすまで、どうぞ生かさせてください。」 夢中でそう祈ったとき、不思議に自ら死の淵から這い上がっていたというのである。 いよいよ晩年、「第九」の作曲に集中するきっかけになったのは、その前年、1823年に「ミサ・ソレムニス」〈荘厳ミサ〉が完成したことにあった。これはキリストと聖句の合唱が渾然一体をなしたものである。これに習って「第九」に合唱を入れることを決意する。そこで頭に浮かんだのが、長年、心の隅に温めてきたシラーの「歓喜に寄す」であった。 「第九」が最後の交響曲になるという予感のもとに全身全霊を捧げようとしたとき、いちばん強く思ったのは、目の前に展開している人と人との争い、国と国との戦争のことであった。せっかく長年の王侯貴族の独裁政治から、大衆が市民権を獲得したにもかかわらず、再び反動勢力に右往左往している姿であった。本当に人間が、人間らしく自立するにはどうすればよいのか、それが課題〈テーマ〉になった。 シラーの詩もそこを強調している。全篇から特にテーマに合う部分を取り出し、思いを込めて旋律をつけた。特に山場になったのは、神〈主〉の表現であった。 星空のかなたに、神〈主〉は住んでおられるに違いない。 Uber Sternen muss er wohnen. 人間の心の中には、善と悪の両方が存在する。常に悪に打ち勝ち、善向かうには、自分よりももっと大きな力〈神〉に依るしかないのではないか。彼はハイリゲンシュタットでの経験をもとに、神の表現に力を注いだ。 けっきょく、第4楽章に「歓喜に寄す」の詩〈抜粋〉を入れることによって、骨格のはっきりした、大衆にアピールするものに出来たのである。 世の中を明るいものにしたいというベートーヴェンの誰よりも強い意志がそうさせたのである。 抱き会おう億万の人びとよ、全世界に口づけを! Seid umschlungen,Millionen! Diesen Kuss der ganzen Welt! (万人が愛で地球を覆いかぶさないかぎり、完全な平和は来ない) 神のやさしい御心の中で、全ての人間が兄弟になる。 Alle Menschen werden Bruder.wo dein sanfter Flugel weilt. 〈私たちも、全ての人が兄弟のように、思いやり、助け合う心を持って、幸せな暮らしをしよう。〉 参考文献 武川寛海「第九の全て」日本放送出版協会 この原稿は、本年6月、徳島県鳴門市で行われた、全日本「第九歌う会」連合会 分科会「第九・シラーの詩について」に出席した際作成したものである。