初めて「国技館すみだ第九コンサート」に参加して

テノール 馬上裕彦

「平和の絆〜第九と共に〜」のテーマによる「第27回 国技館5000人の第九コンサート」に参加しました。

私は、昨年5月に理事会役員代表から解放された機会に、当会「多摩市民『第九』」に6月入会しました。初めは戸惑うばかりの事だらけ。毎週一日も休まずに先生方の特訓稽古のお陰で、年末の、ミユーザ川崎、本番のパルテノン多摩に、何とか末席で参加させて戴きました。また、初年度は「何でも挑戦してみよう」との気持ちから今回の「国技館すみだ第九」にも参加した次第です。

「国技館すみだ」 天候にめぐまれた2月27日、北は北海道から南は九州沖縄、ドイツ他数力国の外国の同好仲間の方々約五千人が館内に参席しました。また地元墨田区の小学校5,6年生も多数参加。私の枡席の中隣には、遠く神戸から泊まり込みで参加された男性と千葉からの男性が入席されました。 午前中のリハーサルが進み、いよいよ本番。オーケストラと、女性指揮者松尾葉子さんの指揮棒から、第九第1楽章が導かれ鳴りはじめました。そして正装したソプラノ佐藤しのぶさん他ソリストが入場。館内は盛り上がり、合唱団員にはピーンと張りつめた空気が。私はお腹を締め、身を構えました。バリトン福島さんの「フロイデ」から、五千人の合唱が響きはじめ、五千人の大合唱が広い国技館内に響きわたりました。 私は、フォルテ、ピアノ、を頭に入れながらついてゆくのみ。歌詞、音程、外さないよう、まわりに、耳も集中、あっというまに歌い終わった、の感じでした。 歓声と、拍手、拍手、に、プロの著名なソリストの方々と歌い終えたんだ、との充実感と満足感、全国からの大勢の同好の皆さんと一帯になれた感動を、全身に覚えた次第でした。

「23.3.11.」 一ーそして、「平和の絆〜第九と共に〜」の感動の日から12日後、3月11日午後2時46分、東北地方を襲った大地震と大津波。近年未曾有の大災害をもたらし、追い打ちかけた原発事故の三大被害。 前月、感動の国技館で歌い終わった後、司会者が全国から来館された同好仲間の方々を、館内を見渡しながらマイクで紹介していました。 「青森県から28名、岩手県から30名、宮城県から32名の各方々が2階の席におられます。」ハンカチ振って答え、拍手、拍手。 「福島県28名、茨城県150名、千葉県、各方々は、1階のあちらです。」拍手拍手、笑顔で手を振っていた姿と拍手が、目と耳にのこってます。…あの国技館の日、参席された方々の中には、今回の甚大な震災で被災されてしまわれた方がおられたかもしれません。おられないことを願いつつ。 「平和の絆」の糸がプツン、と切れてしまったようで、重く、悲しい。東北地区被災のかたがたが、苦難をのりこえ、一歩、一歩、復旧に前進されることを願わずにおられません。そして、「国技館すみだ」での「平和の絆」の糸を固く結びなおし、再び、「国技館すみだ」であの日の笑顔を取り戻され、感動の合唱が歌えることを節に願うばかりです。

クラシック音楽の現状

バス 玉津 直哉

18~19世紀(1701~1900)は、「作曲家」の時代です。モーツァルトやベートーヴェンらの古典派から、ブラームスやブルックナーらのロマン派まで、さまざまな作曲家がいろいろな作曲家の影響を受け、作曲を繰り返しました。普遍性のある名曲が生まれたのも、この時代でした。20世紀は「演奏家」の時代です。クラシック音楽のカテゴリーでは名曲が生まれにくくなったのと同時に、優れた演奏家が優れた古典(クラシック)音楽を演奏する、というスタイルが定着しました。SP、LPレコードの発明が、優秀な演奏家の音楽を自宅にいながらにして聴く事を可能にし、交通機関の発達(言うまでもなく航空機)が、演奏家に世界中を駆け回る事を可能にしました。そして、20世紀の演奏家の時代の極めつけが、指揮者、ヘルベルト・フォン・カラヤンの登場でした。そして、カラヤンの死とともに、クラシック音楽も一つの時代の終焉を迎えました。21世紀はクラシック音楽にとってどんな時代を迎えるのでしょうか?ズバリ「大量消費の時代」です。第二次大戦後、多くの音楽家が金儲けの為にアメリカに渡ったように、クラシック音楽も金儲け中心の大衆音楽のようになってしまうのではないかと思います。経済大国の日本にいれば、どんな演奏家のどんな録音だって聴けます。ショパン・コンクールの覇者で、日本で演奏したことがない演奏家が果たしているでしょうか?(日本で演奏する事が拝金主義につながるのか?という疑問も沸いてきますが、そもそも日本の聴衆の耳が肥えているから日本で演奏してみたい、と演奏家は考えているのでしょうか…?)。私が言いたいのは金儲け主義が悪い、という事ではなく、そうなる事によって、名演が生まれにくくなっているのではないのか、という危惧です。金儲け主義を超越した真の名演を聴いてみたい、と思うのは私だけでしょうか。それだったら、フルトヴェングラーやコルトー(20世紀の名演奏家達)を聴け、とお叱りを受けるかも知れません。しかし、私は21世紀の演奏家による、21世紀の名演を聴いてみたいと思う。 何を基準にして「名演」と定義するのかも難しいですが、それが「『現代』を生きる我々に何かを与えられる演奏」であることは、間違いないと思っています。

(2010.12.13)

中島章雄さんの思い出

バス 宮崎 孝延

今日の練習の中に、中島さんの姿はない。二十三年間も会員としてすごし、役員としても二十年間つくした彼が、今年二月忽然と五十五歳の若さで亡くなられた。 昨年の暮れには、パルテノン大ホールで一緒に唱ったのに。持病があったようだが、一生けんめいに練習にも出て頑張っていたので、私は気がつかなかった。 彼はテナーの名手だった。パルテノンばかりでなく、国の内外の有名なオーケストラとも唱っていた。ナルトや高松にもたびたび行ったし、ベルリン・フィルやロンドン・フィルとも共演したりした。しかもお母さん想いで、母上さんと一緒のことが多かった。いろいろ体験することで、自分を鍛えていたのだ。 彼はよく私に、「第九を若い青少年たちに広げていきたい」と話かけていた。今年、中央大学オーケストラとの共演を楽しみにしていた。しかも、中央大学の創立125周年記念演奏会とし、ミューザ川崎のコンサートホールでも唱うのは栄誉なことだと喜んでいた。さらに来年には「多摩ユースオーケストラ」という、小学生から大学生までの若いオーケストラと私たちが共演することを、吾が事のように、期待していた。パルテノン多摩で、土・日の2回公演をし、互いにチケット売りをがんばり、1回分は多摩第九合唱団の運営費に当て、1回分はユースオーケストラ側の団員研鑽の費用に回したらと言っていた。彼自身、若いころピアニストとして、良き師について研鑽をつんだ日々があったればこそ、肺腑をつく言葉だった。 彼は本当に第九が好きだった。「楽聖といわれるベートーヴェンが人生の最後に、渾身の力を振り絞って作った交響曲だから、それに応えて私たちも全力で取り組めば、その真価がよくわかってくるはずだ」「人間を変え、国を変え、世界を変える名曲だ」と熱っぽく語ってくれた。 「第九」の真価にめざめた1人が1人の友に、その1人がまた1人に、次つぎと1人が1人に伝えていくのが「市民第九」だ、そこがプロの第九とちがう点だとも言った。 私はチケット売りを、もう一息がんばって、暮れの第九を満席にして、来年は晴れて、老いも若きも一つになって、いのちの響き合いが、多摩の丘に湧き上がることを願いつつ歌おうと思う。 中島さんは美しい魂の持ち主だったから、星のかなたに昇っていて、私たちの第九を聴いてくれるにちがいない。 「Über Sternen muss er wohnen.」

(2010.11.28)

クラシック音楽と私

バス 玉津 直哉

私がクラシック音楽に出合ったのは、23歳の頃だから、約11年前になる。 「マンガは哲学する」という意味深なタイトルがついた本の中に、「モーツァルトのピアノ協奏曲第20番のフリードリッヒ・グルダ(ピアニスト)のCDで第1楽章の4分過ぎに、男の子の泣き声が聴こえてくる」という、とても興味を惹かれる文章が書かれていた。著者はかなりのクラシック音楽好きらしく、深い造詣があるようだった。あまりにその文章が印象的だったので、中古CD店で、マレイ・ペライアというピアニストの弾き振り(指揮とピアノを一人で担当すること)の同曲を見つけて買って家で聴いてみた。そのとき受けた衝撃は今でも忘れる事ができない。この音楽こそ、これからの自分とともに歩んでいく音楽だ…と思った(残念ながら、男の子の泣き声は聴こえてこなかった)。音楽を聴いて全身が痺れるような感覚を味わったのは後にも先にも、この時だけである。今は「クラシックCDの名盤」(文春新書)という優れたCDガイドがあって、それを頼りに図書館などで借りてきては、CD-Rに録音している。合唱指導の佐藤先生や運営委員の方々が勧めて下さったCDや本も聴いたり、読んだりしている。あとはNHK-FMの「クラシック・カフェ」「ベスト・オブ・クラシック」、NHK-BSの「クラシック倶楽部」「名探偵アマデウス」などをチェックしている。ベートーヴェンの「第九」については、何種類の演奏を聴いてきたか忘れてしまったほど聴いた。前記のCDガイドではフルトヴェングラーが指揮した1951年のバイロイト音楽祭でのライブ録音が良い(ある本には「この演奏がクラシック音楽の頂点」とまで書かれていた)となっているが、私の耳が悪いのか、この演奏は「ある一時代の記録」と捉えることにしている(完成度という点では随一だと思うので、一聴されたし)。最近ではクラシック音楽の人気の低下が指摘されるが、その要因として、演奏の画一性があげられるようだ。個人的にはそれだけではないような気がするのだが、それについては別の機会に書きたいと思います。

(2010.11.28)

歓喜に感謝

ソプラノ 三津山 千鶴

私は、去年(2009年)初参加(ソプラノ)の、三津山と申します。 まったく何もわからないまま、お仲間に加えていただいたのですが、役員の方々の細かいご配慮と、先生方のユーモラスで熱のこもったご指導のおかげで、毎週楽しく練習させていただくことができました。 本番では、「♪ゲッテル フンケン」と歌い終わった瞬間、感動の涙があふれて、思わずおとなりの方の手をつかんでしまいました。 その方は優しいかたで、わたしの気持ちを察して、ぎゅっと握り返してくださいました。 久々に味わえた、高揚感と感動でした。 今日CDが届きましたので早速聴きました。再びあの感動がよみがえってきて胸があつくなりました。 忙しい時期に大変な作業でしたでしょう。 ありがとうございました。感謝もうしあげます。

今年も、是非参加してうたいたいと思っていますので、どうぞよろしくお願いいたします。

2010年4月

初回の演奏会を思い出して

アルト 小田良子

私の使っている楽譜の大扉に,図のような「おめでとうございます」という前原先生のサイン、「29.11.‘87」と書かれたドイツ語指導の亀井陽二先生、それに平田典之先生のサインが記されている。 これは、第一回パルテノンでの第九の感激がよみがえってくる私の宝物である。 何がそうさせたのか、ふと、第九を今年は歌ってみよう思い立ち、この歌う会に参加させてもらった。驚いたことに、あの一回目からずっと毎年歌ってこられた方々と何人もお逢いした。その情熱と熱心さには頭が下がる。 22年も経った今、私は初心者と同じである。佐藤先生はじめ、熱心な諸先生のご指導で何とか歌えるようになった。イタリア留学前の平田先生にご指導いただいたことも懐かしく思い出され熱が入る。先日(11月15日)はきめ細かい高橋先生の本棒練習を受け、まだオケ合わせはしていないが、あの頃よりはるかに進歩を重ねている多摩管との演奏が胸おどる思いで待たれる。 本当に歓喜の歌である!! 皆さんどうぞよろしく。



ほほだん

バス 藤森 英二

音楽に素人の自分が「第九」に挑戦するという厚顔無恥さに、友人は「やめろ」という。しかし、そう言われると何としてもやってみたくなるヘソ曲りの性格。いざ入会して歌ってみると、まるで無防備でエベレストへ登るみたい。先生からは「もっと口を開けて」といわれても、普段大声を上げることの少ない自分にとっては難行苦行。 それでも家に帰って洗面所の鏡の前で 「ダイネーツァベル ビンデンビーデル」と口をパクパク動かしてみる。 「これが俺の顔か!」あまりの悲惨な顔にしばし意気消沈、声も出ない。 後ろを振り向くと家内がニヤリ。 「ギャッ!」 その家内いわく「ホッペタにおだんごを作るのよ。唇を意識的に上げると、左右の頬がまんまるになるでしょう。そうして口を開けると声の通りが良くなるみたい」 だれの受け売りか知らないが、試しにやってみると、なるほどニコヤカ、まろやかな顔に。これに平田先生がよく言われる『うれしいビックリ』を意識すれば声がスムーズに出る。 「よし、これでいこう」 しかし待てよ、音程は狂いっぱなし、歌詞も十分にマスターしているわけではない。『第九をうたう会』は成人式(20年)を過ぎているのに、自分はまだ小学生並み。先輩の足を引っ張らないように、先生の教えを必死に守って、少しでも上達しなくてはと気を引き締める。 本番まで、“ほほだん(頬だんご)”の日は続く。 

(2011.7 修正加筆)

「第九をうたう会」に入って

バス 雨宮 尊史

第九を歌おうと思った最初のきっかけは、あるオーケストラのプレコンサートで司会をしたことでした。普段、私は市民オーケストラでファゴットという楽器を担当しているのですが、その時は司会も頼まれました。マイクを使う予定でしたが間に合わなく、そのまま喋り出したのですが、自分の声が全く通らなく、ただ怒鳴っている感じになってしまいました。「声をちゃんと出す、声を通す」ということを調べていくうちに、歌うのが一番いいということになり、歌をやってみようと思いました。 それまで歌にはあまり興味がなく、器楽中心だったのですが、第九は交響曲ということもあり馴染みやすく、また数年前にオーケストラで何度か演奏しているので、第九を歌おうと思いました。 「多摩市民『第九』をうたう会」とは、過去に共演させていただいたことでご縁があり、また複数のオーケストラと共演されていることに魅力を感じておりました。初心者でも受け入れてくれるということで、一度は歌ってみようと決心しました。 実際うたってみると慣れないこともあり、息が足らなくなったり音程が分からなくなったり、また歌詞に気を取られて強弱が付けられなかったり、いろいろと問題が出てきました。 考えてみると、歌は中学生以来うたっていなかったので、なにか新鮮な感じで、楽器を使うのとはかなり違うことを、身をもって知った貴重な体験でした。 「第九をうたう会」に入って感じた印象は、初心者にもやさしく分かりやすい指導や、皆さんの歌に対する情熱、歌声の強さでした。 また練習の参加率も高く、何度も歌っているであろう第九に対しても、最初から丁寧に作り上げていく姿勢に、感銘を受けました。 これから本番まで、暗譜等まだまだやらなければならないことが沢山ありますが、本番まで頑張りたいと思います。

『第九記念日』

バス 坪倉 貴之

私が「第九」を最初に歌ったのは20年以上前のことです。当時は、世の中とても景気がよくて、地域の文化振興という名目での、行政主導の演奏会でした。 オケはプロの神奈川フィル、指揮者は佐藤功太郎(故人)、ソリストは塩田美奈子ほかの一流どころです。しかも合唱団員の参加費は無料、楽譜も無料配布で、当日の入場券は、わずか500円でした。正に「よき時代」でしたね。 初めて夢中で歌った第4楽章でした…終わって形容しがたい感動を味わいました。

以来、第九の魅力にとりつかれ、ステージに立ったのは、十回を超えているでしょうね。でも演奏会後、一度として、「完璧に歌えた」と思えたことがありません。 もちろん、楽譜にかじりついて歌った頃に比べたら、最近はステージでも余裕があります。「多摩の第九」に参加させていただいてから、ドイツ語の発音や細かいニュアンスも考えながら歌えるようになってきてもいます。

でも、何回歌っても…やはり「第九」は難しいですね。それぞれの練習には、割合とマジメに参加しています。そんなにも膨大な時間をかけているのに、未だに完璧に歌えないのは、本当に「ため息」が出る思いです。 「逃げ水」のように、近づいたと思うと、更に遠のくといった感じがします。何とも「ニクイ」曲です。でも、それだけチャレンジのし甲斐がある曲ともいえますけど…。

俵万智が作ったサラダに対して、彼氏は「この味がいいね」と言います。なので、その日を「サラダ記念日」としたそうです。わかりますね、その気持ち…。 聴いてくださる方が満足され、歌った自分も同様な思いに浸れるような「第九」を歌いきってみたいです。

「完璧に歌えたから 今日が私の『第九記念日』」 いつか、演奏会が終わった時に、絶対に、そんな気持ちになりたい…と思っている昨今です。

(2011.7 修正加筆)

日本初演の地 鳴門で歌って感激!

バス 青山 登佑

定年退職して、五十肩と肋骨骨折のリハビリ中だったが、運動だけでは捗々(はかばか)しくない。 そこで若い頃好きだった合唱を再開しようと第九を歌う会に参加した。さらに欲張って?ソロの勉強も始めた(11月30日夜パルテノン小ホールの歌曲とオペラアリアの夕べで歌います)。 その指導をお願いした芸大声楽科卒の岩波淑子先生が鳴門の出身で、「鳴門市文化会館の杮落としの第九にソプラノのソロで歌った。ロビーに大きな写真が飾ってある」と云われたので、渦潮見物も兼て第28回鳴門第九演奏会に参加して歌うことにした。 妻と愛犬を乗せて、久々の長距離ドライブで会場に到着、多摩市民第九の会有志16名と合流した。前夜祭には出ないので客席でゲネプロから見学した。混声合唱〔日本の四季〕、公募で選ばれたソリストによるオペラアリア、第九など好きな世界を堪能できた。これだけでも来た甲斐があると言うもんだ。 さて本番当日、500人を越える合唱団が短時間の練習で見事にまとまる。さすが〔第九のプロ集団?〕と感心した。若い頃、大合唱運動の一員として各地労音の第九公演に応援で参加したが、その頃の種が全国に根付いているのか?と感激も一入だった………。 多摩市民の会で歌うのは2年目になるが、長いブランクで夢中だった去年と違って周りが見えてきて、練習の度に自分の覚え違いや発音のいい加減さを知らされている。 なんだか去年に比べて練習が厳しく、より高度なものを求められている?気がするけど、高齢化にもめげず皆で「練習に集中」して、素晴らしい演奏を創って行きましょう!